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大都会の秘境・ジャングルクルーズ!御茶ノ水駅と聖橋を船から見上げる 『神田川クルーズ』  ガイドレポート

9/28 浅草見附

2011年10月 5日

みなさん、こんにちは。ガイドの青柳です。

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隅田川から神田川に入り、2番目に見えて来る橋が、「浅草橋」です。

 

浅草橋の創架は元和2年(1616)、江戸時代の初期の頃にはすでに存在していました。

 

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創架から20年後、寛永13年(1636)に見附門が設置され、浅草橋は奥州街道が通り、浅草観音への主要ルートになります。

そして、この見附門は「浅草御門」と呼ばれるようになりました。

 

ちなみに、「見附」とは、幕府が主要交通路の重要な地点に櫓、門、橋を築き、江戸城を警備させるようにし、警備の人を配置したことから名付けられています。

 

浅草御門ができるまでは、日本橋川に架かっていた常磐橋が浅草口でした。

その後、浅草御門が完成し、奥州・日光街道の第1拠点となっていきました。

 

このように江戸の街の交通の要衝であったと言われる浅草御門ですが、この御門にまつわるエピソードの中に悲しい物語があります。

 


明暦の大火の際、伝馬町に収監されていた囚人達が避難をするために、一時的に牢屋を解き放ちました。

そこで、囚人達は浅草御門へ殺到します。

しかし、それを見た見附にいる番人は脱獄と勘違いし、門を閉ざしてしまいました。

その結果、一般市民も御門から先に逃げられなくなってしまい、2万人もの溺死者、焼死者を出すことになってしまいました。

 

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浅草御門の付近には、「郡代屋敷」と言うものがありました。

郡代とは、徳川家康公が江戸入府の際、伊奈忠次さんを代官頭に任命したことに端を発しています。

それが後に「関東郡代」と呼ばれるようになり、伊奈氏が12代に渡り世襲しました。

 東郡代とは、関東一円、及び東海地方などの幕府領を管理する役職のことで、主な仕事は...

①年貢の徴収

②治水

③領民紛争の処理

...などが挙げられます。

それでは、代々、関東郡代を勤めた伊奈氏の始祖・伊奈忠次さんという人物とはどのような人物だったのでしょうか...

伊奈忠次さんは戦国期、徳川家家臣でしたが、三河一向一揆の際は、一揆方に与し、出奔してしまいます。
その後、長篠の戦いで功を挙げ、家臣に復帰すると、信康公の側近になりましたが、主君が切腹をさせられてしまうと、再び出奔し、堺に蟄居してしまいました。
しかし、本能寺の変が起こった際に、家康公の伊賀越えを助け、再び徳川家に帰参することになりました。

江戸幕府開府後、関東代官に任命されると、伊奈忠次さんは主に以下の政策を行いました。

①関東を中心に各地で検地、新田開発

②利根川、荒川などの河川改修

③木炭製造の炭焼き、養蚕、製塩を奨励

④桑、麻、楮※(こうぞ)などの栽培方法を伝授

※和紙の原料

このような功績により、伊奈忠次さんは農民の方々から厚い崇拝を受けることになりました。

そして、江戸時代、長きに渡って、関東郡代という責任ある役職を伊奈氏が世襲していきましたが、寛政4年(1792)、伊奈忠尊さんが失脚した後、勘定奉行がその職を兼務し、浅草橋の郡代屋敷に居住しました。

ところが、文化3年(1806)にお屋敷が焼失すると、その後は代官持ちになり、「馬喰町御用屋敷」と改称されますが、江戸町民からは、永く郡代屋敷と呼び続けられていきました。

当時の古地図を見ますと、浅草御門周辺は町人街が広がっています。
きっと、そこには数多くの棟割長屋が並んでいたのかと思います。
郡代屋敷はその町人街の中において、神田川に面した場所に、広大な敷地を有しており、そのお屋敷は、周囲を圧倒するような威容を誇っていたことでしょう。