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お江シリーズ【2】『増上寺編』 戦国姫・お江ゆかりの地をめぐる ~波乱万丈、強く生き抜いた女性たち~  ガイドレポート

4/3  お江シリーズ②~増上寺編~

2011年4月 8日
みなさん、こんにちは。ガイドの青柳です。

今日は、「お江ゆかりの地をめぐる~増上寺編」に行ってきました。
このコースは、六本木からスタートし、麻布―増上寺等を通っていき、最後は芝大神宮まで行きます。

六本木と言いますと、私がイメージするのは、バーなどのお洒落なお店が多い場所と思っていたのですが、そんな賑やかな六本木の中にお江さんの足跡が隠されていたというのは、何か興味深い感じがしました。

お江さんが荼毘に付されたあと、葬儀は六本木の近くにある「我善坊谷」というところで、盛大に執り行われたと言われています。
歴代将軍、及び、正室、側室など、全員土葬されたのですが、唯一お江さんだけ火葬されたのだそうです。
そのお江さんの灰塚が六本木交差点のすぐ近くにある「深広寺」さんに戦前まで存在していたと言われています。
私がこれまで懐いていた六本木の雰囲気とはまた違った一面を垣間見たような気がします。

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こちらは「金地禅院」です。今は東京タワーの隣にあります。
華やかな東京タワーの横で、ひっそりと佇んでいる印象のあるお寺ですが、この金地禅院は、江戸幕府初期において、その基盤を作ったと言われる「金地院崇伝」さんのゆかりの場所です。

金地院崇伝さんは幼い頃、父・一色秀勝さんが、自らが仕える足利幕府が京を追い出されたあと主家に殉じたため、京都・南禅寺に引き取られ仏門に入ります。文禄三年(1594年)、住職の資格を取り、「以心崇伝」と名乗ったそうです。

金地院崇伝さんが、徳川家康さんに取り立てられたのは、慶長十三年(1608年)の頃であると言われています。
駿府に「金地院」を建ててもらい、徳川家康さんの元で働くようになりました。
「寺院制度」「武家諸法度」「禁中並公家諸法度」などを起草、幕府の体制固めに尽力したと言われています。
このように、金地院崇伝さんは、南光坊天海さんと共に、江戸初期の政治的意志決定に大きな影響力を振るったところから、「黒衣の宰相」と言われていたそうです。

徳川家康さんがお亡くなりになると、金地院崇伝さんは、その神号をめぐって、南光坊天海さん、本多正純さんと対立します。
崇伝さんは徳川家康さんを大明神として、吉田神道で祭るべきであるというのに対し、南光坊天海さん、本多正純さんらは権現として、山王一実神道で祭るべきと主張したそうです。

大明神は豊臣秀吉さんを祭った豊国明神がありますが、結果的に豊臣氏は滅亡したので、あまり縁起がよろしくないとされたため、徳川家康さんは南光坊天海さんや本多正純さんらが推していた、権現として祭られ、日光東照宮が建立されました。

金地院崇伝さんは、幕府の権力確立に大きく貢献されましたが、反面、官僚的でドライな面もあったそうです。
例えば、大坂夏の陣の発端となった、「方広寺鐘銘事件」は板倉勝重さんや南光坊天海さんと共に画策したと言われています。また、「紫衣事件」で流罪となった沢庵和尚からは「天魔外道」と評されたとも言われています。

江戸にも金地院が建てられましたが、徳川家康さんという後ろ楯がなくなったら、金地院崇伝さんはその地位を南光坊天海さんに譲ってしまったそうです。

しかしながら、幕末期の古地図を見ますと、金地院は顕在で、そこに何か崇伝さんの影響力を感じます。