ぽけかる倶楽部 ガイドレポート
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青柳 竜馬 |
クールな雰囲気、ハーフのような装い。その見た目とは裏腹に人情が厚く、生粋の埼玉っ子。
歴史に詳しく、野球に強い。まさに大人になった少年のような方ですが、ワンパクではありませんのでご安心を。 社員 黒木
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みなさん、こんにちは。ガイドの青柳です。

明治~大正時代、横須賀の向山に海軍官舎がありました。
この地名は、横須賀造船所に向かい合う山であったことから、「向山」と呼ばれていたそうです。
この説明板には「聖蹟」と書かれていますが、これは明治天皇が利用された建物跡なので、「史跡」ではなく「聖蹟」となっています。
明治新政府は、日本を国民国家に統治することで、近代化を創出しようとしました。
そこで、天皇制を徹底させ、日本人に国民意識を醸成させるために、陛下は東京、京都の行幸から、その範囲を徐々に広げていき、軍隊への行幸、天覧を積極的に進められていきます。
この背景には、日本の国土に近代を創り出し、その成果を列強国に認めさせることによって、不平等条約の頚木(くびき)※と西欧の脅威から逃れるには、国家防衛のための軍隊の確立が最優先であったことがあげられます。
※頸木...自由を束縛するもの
陛下は45年間の中で何回も横須賀に行幸されており、最初は明治4年(1871)、ヴェルニーさんの再三の要請により、浜離宮から船に乗り、1月1日~3日まで行われました。
初日、2日目に横須賀製鉄所(造船所)内の各施設を視察され、3日目は猿島沖で第1、第2両艦隊の大砲発射を天覧されました。
翌年に新橋―横浜間の鉄道が開通すると、汽車で横浜まで移動、浦賀にて軍艦に試乗されました。
陛下の最初の行幸である明治4年から3回にわたり、向山海軍官舎に宿泊されました。
ちなみに、ここには、横須賀造船所建設に尽力したフランソア・レオンス・ヴェルニーさんも宿泊をしたそうです。
明治6年の行幸のときは、猿島沖で展開中の艦隊操練を向山行在所の屋上から天覧したそうです。
しかし、明治14年の行幸では、建物の老朽化が甚だしいため、JR横須賀駅の近くにあった「藤倉」という旅館に宿泊されました。
陛下の行幸は艦船の進水式も多かったそうです。
明治8年には、「清輝※」の進水式に行幸になり、横須賀造船所で建造された最初の軍艦で、国産軍艦の第1号ということになります。
※清輝...元々、外洋御召艦として建造が開始されたが、途中で軍艦に設計変更されている。
そして、明治28年の行幸では、日清戦争の戦利艦の天覧のため訪れており、当時、横須賀港内に停泊する艦艇は、敬意を表すために、礼砲を21発放ちました。
これを観にきた見物客は、数万を超えていたと言われ、港内を埋め尽くす艦艇や、空砲の音、もうもうと立ち込める白煙...そのスケールの大きさは、壮大なものであったと想像できます。

明治~大正時代、横須賀の向山に海軍官舎がありました。この地名は、横須賀造船所に向かい合う山であったことから、「向山」と呼ばれていたそうです。
この説明板には「聖蹟」と書かれていますが、これは明治天皇が利用された建物跡なので、「史跡」ではなく「聖蹟」となっています。
明治新政府は、日本を国民国家に統治することで、近代化を創出しようとしました。そこで、天皇制を徹底させ、日本人に国民意識を醸成させるために、陛下は東京、京都の行幸から、その範囲を徐々に広げていき、軍隊への行幸、天覧を積極的に進められていきます。
この背景には、日本の国土に近代を創り出し、その成果を列強国に認めさせることによって、不平等条約の頚木(くびき)※と西欧の脅威から逃れるには、国家防衛のための軍隊の確立が最優先であったことがあげられます。
※頸木...自由を束縛するもの
陛下は45年間の中で何回も横須賀に行幸されており、最初は明治4年(1871)、ヴェルニーさんの再三の要請により、浜離宮から船に乗り、1月1日~3日まで行われました。
初日、2日目に横須賀製鉄所(造船所)内の各施設を視察され、3日目は猿島沖で第1、第2両艦隊の大砲発射を天覧されました。
翌年に新橋―横浜間の鉄道が開通すると、汽車で横浜まで移動、浦賀にて軍艦に試乗されました。
陛下の最初の行幸である明治4年から3回にわたり、向山海軍官舎に宿泊されました。
ちなみに、ここには、横須賀造船所建設に尽力したフランソア・レオンス・ヴェルニーさんも宿泊をしたそうです。
明治6年の行幸のときは、猿島沖で展開中の艦隊操練を向山行在所の屋上から天覧したそうです。
しかし、明治14年の行幸では、建物の老朽化が甚だしいため、JR横須賀駅の近くにあった「藤倉」という旅館に宿泊されました。
陛下の行幸は艦船の進水式も多かったそうです。
明治8年には、「清輝※」の進水式に行幸になり、横須賀造船所で建造された最初の軍艦で、国産軍艦の第1号ということになります。
※清輝...元々、外洋御召艦として建造が開始されたが、途中で軍艦に設計変更されている。
そして、明治28年の行幸では、日清戦争の戦利艦の天覧のため訪れており、当時、横須賀港内に停泊する艦艇は、敬意を表すために、礼砲を21発放ちました。
これを観にきた見物客は、数万を超えていたと言われ、港内を埋め尽くす艦艇や、空砲の音、もうもうと立ち込める白煙...そのスケールの大きさは、壮大なものであったと想像できます。