ぽけかる倶楽部 ガイドレポート
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青柳 竜馬 |
クールな雰囲気、ハーフのような装い。その見た目とは裏腹に人情が厚く、生粋の埼玉っ子。
歴史に詳しく、野球に強い。まさに大人になった少年のような方ですが、ワンパクではありませんのでご安心を。 社員 黒木
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みなさん、こんにちは。ガイドの青柳です。

青雲寺は、江戸時代、「花見寺」と言われ、他に、修性院、妙隆寺、南泉寺、延命寺が花見寺と言われ、境内は綺麗に作庭されました。
周辺には茶屋が立ち、四季折々の花々を楽しむ人達で大変賑わったと言われています。
青雲寺には、曲亭馬琴さんの筆塚があり、使用できなくなった573本もの筆を当寺に納めました。
元々、この地は南に上野、北には飛鳥山と続く丘陵地帯で、江戸時代以前の頃は、その東側は入江になっていました。
この地に、太田道灌さんは、石神井城を拠点とする豊島氏と対峙すべく、出城を築くことになります。
この丘陵地帯は江戸湾に面しているため、城に兵糧を運ぶのには格好の立地でした。
これは境内にある「舟繋松の碑」です。
青雲寺の北東に、かつて2本の松が植えられていたことを表しています。
境内の北東は、ちょうど丘陵地帯の崖の部分に位置し、城に物資を運ぶ際の目印となっていました。
「舟繋の松」の「繋」というのは、実際に舟を松に繋いだということではなく、舟の目標であったということを意味しています。
舟繋の松のうち、一本は安永元年(1772)の台風で、残念ながら消失してしまいました。
風光明媚であった日暮の里を離れ、谷中方面に行ってみましょう。

このお寺は「一乗寺」と言います。
谷中では古いお寺の1つに挙げられます。
そもそも谷中の名前の由来は、上野のお山と本郷台に挟まれた場所のことを指し、両者の谷間に位置することから、「谷中」という名前が付きました。
ゆえに坂も多く、それぞれに名前がついていることも興味深いです。
例えば、「三崎坂」と呼ばれる坂は、別名、「首振り坂」と呼ばれ、この界隈に、首ばかり振っている和尚さんがいたということから、その名がつきました。
また「三浦坂」と呼ばれる坂もあり、これは、その坂の近くに三浦志摩守という武士のお屋敷があったことに因んでいます。
谷中の隣に徳川家菩提寺の東叡山寛永寺があったので、各藩の有力大名は、谷中の地に寛永寺の子院を寄進しました。
時代は幕末になり、寛永寺で勃発した上野戦争の壮絶な戦いによって、多くの子院が灰塵に帰す結果になりました。
従って、現在では数坊を残すのみとなってしまいました。
しかしながら、今、谷中を歩いていると、数多くの寺院が存在し、東叡山寛永寺の影響を受け、寺町として谷中が発展したことが感じられてきます。

青雲寺は、江戸時代、「花見寺」と言われ、他に、修性院、妙隆寺、南泉寺、延命寺が花見寺と言われ、境内は綺麗に作庭されました。
周辺には茶屋が立ち、四季折々の花々を楽しむ人達で大変賑わったと言われています。
青雲寺には、曲亭馬琴さんの筆塚があり、使用できなくなった573本もの筆を当寺に納めました。
元々、この地は南に上野、北には飛鳥山と続く丘陵地帯で、江戸時代以前の頃は、その東側は入江になっていました。
この地に、太田道灌さんは、石神井城を拠点とする豊島氏と対峙すべく、出城を築くことになります。
この丘陵地帯は江戸湾に面しているため、城に兵糧を運ぶのには格好の立地でした。
これは境内にある「舟繋松の碑」です。青雲寺の北東に、かつて2本の松が植えられていたことを表しています。
境内の北東は、ちょうど丘陵地帯の崖の部分に位置し、城に物資を運ぶ際の目印となっていました。
「舟繋の松」の「繋」というのは、実際に舟を松に繋いだということではなく、舟の目標であったということを意味しています。
舟繋の松のうち、一本は安永元年(1772)の台風で、残念ながら消失してしまいました。
風光明媚であった日暮の里を離れ、谷中方面に行ってみましょう。

このお寺は「一乗寺」と言います。
谷中では古いお寺の1つに挙げられます。
そもそも谷中の名前の由来は、上野のお山と本郷台に挟まれた場所のことを指し、両者の谷間に位置することから、「谷中」という名前が付きました。
ゆえに坂も多く、それぞれに名前がついていることも興味深いです。
例えば、「三崎坂」と呼ばれる坂は、別名、「首振り坂」と呼ばれ、この界隈に、首ばかり振っている和尚さんがいたということから、その名がつきました。
また「三浦坂」と呼ばれる坂もあり、これは、その坂の近くに三浦志摩守という武士のお屋敷があったことに因んでいます。
谷中の隣に徳川家菩提寺の東叡山寛永寺があったので、各藩の有力大名は、谷中の地に寛永寺の子院を寄進しました。
時代は幕末になり、寛永寺で勃発した上野戦争の壮絶な戦いによって、多くの子院が灰塵に帰す結果になりました。
従って、現在では数坊を残すのみとなってしまいました。
しかしながら、今、谷中を歩いていると、数多くの寺院が存在し、東叡山寛永寺の影響を受け、寺町として谷中が発展したことが感じられてきます。