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青柳 竜馬 |
クールな雰囲気、ハーフのような装い。その見た目とは裏腹に人情が厚く、生粋の埼玉っ子。
歴史に詳しく、野球に強い。まさに大人になった少年のような方ですが、ワンパクではありませんのでご安心を。 社員 黒木
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大都会の秘境・ジャングルクルーズ!御茶ノ水駅と聖橋を船から見上げる 『神田川クルーズ』 ガイドレポート
10/16 かつての神田川の風景
2011年10月18日
みなさん、こんにちは。ガイドの青柳です。
「お茶の水」という名前の由来は、かつて、その界隈に金峰山高林寺という曹洞宗の禅寺がございました。
その境内に泉が湧き出ており、2代将軍秀忠公の鷹狩りで当寺を訪れたときに、その水を献上したところ、大変に喜ばれたということから、以後、江戸城内に献上されるようになったそうです。
そして、お茶を点てる際に使用されるようになり、将軍専用の水となりました。
高林寺は、いつしか「御茶の水高林寺」と呼ばれるようになり、「お茶の水」の地名の由来となりました。
しかし、振袖火事(明暦3年・1657)で、高林寺は駒込に移転を余儀なくされます。
名水「お茶の水の井戸」は大火後も残りましたが、寛文元年(1661)、伊達綱宗公(伊達政宗公の孫)が神田川の拡張工事を行った結果、井戸も川底に消えてしまいました。
神田川の開発によって、将軍を喜ばせた名水は姿を消してしまいましたが、先日もご紹介したように、関口で分けられた上水は江戸市中へと供給され、町民の生活を支えることになります。
神田川に架けられた掛樋を上水が通っていきましたが、お茶の水側にその掛樋があり、それに平行して架かっていた橋が「水道橋」。

この絵は「江戸名所図会」の水道橋の様子を描いたものです。
「見下ろせば木曽思い出すお茶の水(木曽の渓谷に似ている)」
水道橋が架かっているあたりの川からの景色は、風光明媚な場所として知られていました。
昌平黌の教授や近くに住む漢学者達が、四季折々の紅葉、月を愛でたと言われています。
このような知識人達は、この風景を「小赤壁」、「茗渓」と称えました。
絵の右側の岸に、小屋のようなものが建っているのが見えます。
これは、「森山」という人気の蒲焼き屋を描いていると言われています。
森山は、嘉永5年(1852)に発行された「江戸前大蒲焼」という番付表にも掲載され、江戸の鰻屋221軒が書かれた番付の「世話役」という地位として書かれている名店です。
森山は神田川に架かる上水道の管理小屋と鰻屋を兼業していたと言われており、江戸名所図会を始め、書物の挿絵や浮世絵の中にも登場しています。
しかし、下記の川柳をご覧ください...
「森山と言えど所は坂の下」
この川柳に出てくる「坂」を昌平坂と解釈すると、森山は水道橋付近ではなく、昌平坂の下にあったことになり、江戸名所図会と矛盾してしまいます。
実際の森山がどこにあったのか、それはとても興味深いところですが、いずれにせよ、当時の知識人達や文人達に愛されたのは、水道橋~昌平橋あたりまでということになるのではないないでしょうか...。
「峨眉山※月は森山の客が誉め」
※峨眉山(がびさん)...中国四川省にある山、道教や仏教の聖地。中国3大霊山(五台山、天台山)や中国4大仏教名山(五台山、九華山、普陀山)の1つにあたる。
江戸時代の風景を、現存する絵や川柳など頼りに繋ぎ合わせていくと、景勝地・神田川が見えてくるような気がします。
「お茶の水」という名前の由来は、かつて、その界隈に金峰山高林寺という曹洞宗の禅寺がございました。その境内に泉が湧き出ており、2代将軍秀忠公の鷹狩りで当寺を訪れたときに、その水を献上したところ、大変に喜ばれたということから、以後、江戸城内に献上されるようになったそうです。
そして、お茶を点てる際に使用されるようになり、将軍専用の水となりました。
高林寺は、いつしか「御茶の水高林寺」と呼ばれるようになり、「お茶の水」の地名の由来となりました。
しかし、振袖火事(明暦3年・1657)で、高林寺は駒込に移転を余儀なくされます。
名水「お茶の水の井戸」は大火後も残りましたが、寛文元年(1661)、伊達綱宗公(伊達政宗公の孫)が神田川の拡張工事を行った結果、井戸も川底に消えてしまいました。
神田川の開発によって、将軍を喜ばせた名水は姿を消してしまいましたが、先日もご紹介したように、関口で分けられた上水は江戸市中へと供給され、町民の生活を支えることになります。
神田川に架けられた掛樋を上水が通っていきましたが、お茶の水側にその掛樋があり、それに平行して架かっていた橋が「水道橋」。

この絵は「江戸名所図会」の水道橋の様子を描いたものです。
「見下ろせば木曽思い出すお茶の水(木曽の渓谷に似ている)」
水道橋が架かっているあたりの川からの景色は、風光明媚な場所として知られていました。
昌平黌の教授や近くに住む漢学者達が、四季折々の紅葉、月を愛でたと言われています。
このような知識人達は、この風景を「小赤壁」、「茗渓」と称えました。
絵の右側の岸に、小屋のようなものが建っているのが見えます。
これは、「森山」という人気の蒲焼き屋を描いていると言われています。
森山は、嘉永5年(1852)に発行された「江戸前大蒲焼」という番付表にも掲載され、江戸の鰻屋221軒が書かれた番付の「世話役」という地位として書かれている名店です。
森山は神田川に架かる上水道の管理小屋と鰻屋を兼業していたと言われており、江戸名所図会を始め、書物の挿絵や浮世絵の中にも登場しています。
しかし、下記の川柳をご覧ください...
「森山と言えど所は坂の下」
この川柳に出てくる「坂」を昌平坂と解釈すると、森山は水道橋付近ではなく、昌平坂の下にあったことになり、江戸名所図会と矛盾してしまいます。
実際の森山がどこにあったのか、それはとても興味深いところですが、いずれにせよ、当時の知識人達や文人達に愛されたのは、水道橋~昌平橋あたりまでということになるのではないないでしょうか...。
「峨眉山※月は森山の客が誉め」
※峨眉山(がびさん)...中国四川省にある山、道教や仏教の聖地。中国3大霊山(五台山、天台山)や中国4大仏教名山(五台山、九華山、普陀山)の1つにあたる。
江戸時代の風景を、現存する絵や川柳など頼りに繋ぎ合わせていくと、景勝地・神田川が見えてくるような気がします。