ぽけかる倶楽部 ガイドレポート
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青柳 竜馬 |
クールな雰囲気、ハーフのような装い。その見た目とは裏腹に人情が厚く、生粋の埼玉っ子。
歴史に詳しく、野球に強い。まさに大人になった少年のような方ですが、ワンパクではありませんのでご安心を。 社員 黒木
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みなさん、こんにちは。ガイドの青柳です。
現在の西日暮里~日暮里エリアはかつて「ひぐらしの里」と呼ばれていました。
元は「新堀(にっぽり)村」という名前でしたが、日が暮れるまでいてしまうほど、とても良い景観の場所であったというとこから、「ひぐらしの里」という名前になったそうです。
ひぐらしの里の中央にそびえていたのが、諏訪台...この丘陵地帯を「道灌山」と呼んでいたのは、新堀村の土豪・関道灌さんが屋敷を構えていたからとも、太田道灌さんが出城を築いたからとも言われています。
太田道灌さんがこの地に砦を築いた頃、この崖下まで入江があったそうです。
従って、道灌山は江戸湊に近接し、水運利用の格好の場所だったと言えたのではないかと思います。
太田道灌さんが豊島氏と対立をしていた際、豊島氏の本城が石神井城でした。
石神井城からも近く、水の恩恵を受けるこの場所は、出城を築くに格好の場所であったと言えるます。
江戸時代になると、この台地上には寺社が集中し、道灌山の西側には佐竹右京大夫さんの下屋敷がありました。
諏訪台の最も見晴らしの良い場所にあったのが「諏方神社」です。
創立は元久2年(1205)、寛永12年(1635)に現在の地に遷座しました。
この諏方神社は、新堀村、谷中村の総鎮守として多くの信仰を集めました。
東都歳時記によると...
「八重桜、谷中に日暮の里、諏方神社周辺、田圃の眺望、いとよし、山下の寺院庭を造り、亭を儲く、弥生此、此地に遊ぶ人、日毎に多し、崖に望んで、カラワケを投げて興ず」
...と、あります。
この一節を読むだけでも、この界隈がとてもロケーションの良い場所であったことが想像できます。

その諏方神社の別当に、「浄光寺」があります。
浄光寺は、諏訪台の最も高いところを寺域として、眺望が良く、特に雪見に適していたので、「雪見寺」と呼ばれていました。
三代将軍・家光公が鷹狩りに訪れた際、浄光寺を御膳所にしていました。
以来、歴代将軍が当寺を訪れるようになったと言われています。
また、浄光寺には「江戸六地蔵」もありました。
江戸六地蔵は、主に二種類に分けることができ、
①元禄期(1688~1704)
②宝永期(1704~1711)
があります。
元禄期の六地蔵は空無上人が開眼供養したものであるのに対し、宝永期のものは、地蔵坊正元が庶民から寄進を募り造立されたものになります。
元禄期の六地蔵を「始めの六地蔵」と呼んでおり、宝永期のものは「後の六地蔵」と呼んでいました。
しかしながら、元禄期の六地蔵は震災戦災などで消滅してしまい、現存しているのは、「第二番・専念寺(千駄木)」のみになってしまいました。
ちなみに第三番である浄光寺の六地蔵は文化10年(1803)に再建されたものになります。
明治時代に入り、神仏分離令によって、諏方神社も浄光寺も分離してしまいましたが、両者が現在も隣同士であるということは、江戸時代からの名残であるかと思います。
現在の西日暮里~日暮里エリアはかつて「ひぐらしの里」と呼ばれていました。
元は「新堀(にっぽり)村」という名前でしたが、日が暮れるまでいてしまうほど、とても良い景観の場所であったというとこから、「ひぐらしの里」という名前になったそうです。
ひぐらしの里の中央にそびえていたのが、諏訪台...この丘陵地帯を「道灌山」と呼んでいたのは、新堀村の土豪・関道灌さんが屋敷を構えていたからとも、太田道灌さんが出城を築いたからとも言われています。
太田道灌さんがこの地に砦を築いた頃、この崖下まで入江があったそうです。
従って、道灌山は江戸湊に近接し、水運利用の格好の場所だったと言えたのではないかと思います。
太田道灌さんが豊島氏と対立をしていた際、豊島氏の本城が石神井城でした。
石神井城からも近く、水の恩恵を受けるこの場所は、出城を築くに格好の場所であったと言えるます。
江戸時代になると、この台地上には寺社が集中し、道灌山の西側には佐竹右京大夫さんの下屋敷がありました。
諏訪台の最も見晴らしの良い場所にあったのが「諏方神社」です。創立は元久2年(1205)、寛永12年(1635)に現在の地に遷座しました。
この諏方神社は、新堀村、谷中村の総鎮守として多くの信仰を集めました。
東都歳時記によると...
「八重桜、谷中に日暮の里、諏方神社周辺、田圃の眺望、いとよし、山下の寺院庭を造り、亭を儲く、弥生此、此地に遊ぶ人、日毎に多し、崖に望んで、カラワケを投げて興ず」
...と、あります。
この一節を読むだけでも、この界隈がとてもロケーションの良い場所であったことが想像できます。

その諏方神社の別当に、「浄光寺」があります。
浄光寺は、諏訪台の最も高いところを寺域として、眺望が良く、特に雪見に適していたので、「雪見寺」と呼ばれていました。
三代将軍・家光公が鷹狩りに訪れた際、浄光寺を御膳所にしていました。
以来、歴代将軍が当寺を訪れるようになったと言われています。
また、浄光寺には「江戸六地蔵」もありました。
江戸六地蔵は、主に二種類に分けることができ、
①元禄期(1688~1704)
②宝永期(1704~1711)
があります。
元禄期の六地蔵は空無上人が開眼供養したものであるのに対し、宝永期のものは、地蔵坊正元が庶民から寄進を募り造立されたものになります。
元禄期の六地蔵を「始めの六地蔵」と呼んでおり、宝永期のものは「後の六地蔵」と呼んでいました。
しかしながら、元禄期の六地蔵は震災戦災などで消滅してしまい、現存しているのは、「第二番・専念寺(千駄木)」のみになってしまいました。
ちなみに第三番である浄光寺の六地蔵は文化10年(1803)に再建されたものになります。
明治時代に入り、神仏分離令によって、諏方神社も浄光寺も分離してしまいましたが、両者が現在も隣同士であるということは、江戸時代からの名残であるかと思います。