ぽけかる倶楽部 ガイドレポート
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青柳 竜馬 |
クールな雰囲気、ハーフのような装い。その見た目とは裏腹に人情が厚く、生粋の埼玉っ子。
歴史に詳しく、野球に強い。まさに大人になった少年のような方ですが、ワンパクではありませんのでご安心を。 社員 黒木
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みなさん、こんにちは。ガイドの青柳です。

旧前田侯爵邸の設計者は帝国大学教授の塚本靖氏と、そして、宮内省内匠寮工務課技師、高橋貞太郎氏です。
今日は、その高橋貞太郎氏について、ご紹介していきたいと思います。
高橋貞太郎氏の作品は、聖徳記念絵画館、学士会館、日本橋高島屋などがあります。
高橋貞太郎氏は、明治25年に滋賀県で生まれました。
三高を経て、帝国大学工科大学建築学科に進学し、優秀な成績を修めたと言われています。
卒業時には、岡田信一郎氏※に次いで、天皇陛下より恩賜の銀時計を賜りました。
※岡田信一郎...大正・昭和初期に活躍した建築家。明治生命館、歌舞伎座(2010年取り壊し)、鳩山一郎邸等...
特に鳩山一郎氏とは、旧制中学時代からの友人。
「恩賜の銀時計」とは、明治維新から第二次世界対戦まで、陸軍士官学校、陸軍騎兵学校等の軍学校、帝国大学、学習院、商船学校で、各学部の成績優秀者に、陛下から褒章として、陛下臨席の卒業式で銀時計が授与されました。
従って、恩賜の銀時計は至高の名誉であったということになります。
このように銀時計を授与された者は、「銀時計組」と言われました。
元々、恩賜の銀時計というのは、軍学校から始まり、帝国大学等に広まったそうです。
ちなみに、夏目漱石さんの作品で「虞美人草」に登場する、主人公・小野は大学で銀時計を授与されたという設定で描かれています。
高橋貞太郎さんの建築の特徴として、復興建築助成株式会社で震災復興の現場指揮をとっていた経験を活かし、随所に震災の教訓を組み込んだ構造、防災面の配慮がなされています。
大正10年(1921)、宮内省内匠寮技師となり、赤坂離宮の改修、宮廷の建設に関わりました。
大正14年(1925)には学士会館の設計競技(コンペ)に入賞しています。
昭和5年(1930)、帝国ホテル支配人である犬丸徹三氏との邂逅を得て独立し、ホテル建築のスペシャリストになりました。
「上高地ホテル」や「川奈ホテル」などは、高橋貞太郎氏が手掛けたものになります。
フランク・ロイド・ライト氏設計の旧帝国ホテル本館解体後の新本館設計の際、多数の保存支持者から批判を受けるも、その設計に精力を注ぎ込みました。
高橋貞太郎氏は、イギリス流の邸宅を得意としており、その代表格の1つとして、旧前田侯爵邸があげられると思います。

旧前田侯爵邸の設計者は帝国大学教授の塚本靖氏と、そして、宮内省内匠寮工務課技師、高橋貞太郎氏です。
今日は、その高橋貞太郎氏について、ご紹介していきたいと思います。
高橋貞太郎氏の作品は、聖徳記念絵画館、学士会館、日本橋高島屋などがあります。
高橋貞太郎氏は、明治25年に滋賀県で生まれました。
三高を経て、帝国大学工科大学建築学科に進学し、優秀な成績を修めたと言われています。
卒業時には、岡田信一郎氏※に次いで、天皇陛下より恩賜の銀時計を賜りました。
※岡田信一郎...大正・昭和初期に活躍した建築家。明治生命館、歌舞伎座(2010年取り壊し)、鳩山一郎邸等...
特に鳩山一郎氏とは、旧制中学時代からの友人。
「恩賜の銀時計」とは、明治維新から第二次世界対戦まで、陸軍士官学校、陸軍騎兵学校等の軍学校、帝国大学、学習院、商船学校で、各学部の成績優秀者に、陛下から褒章として、陛下臨席の卒業式で銀時計が授与されました。
従って、恩賜の銀時計は至高の名誉であったということになります。
このように銀時計を授与された者は、「銀時計組」と言われました。
元々、恩賜の銀時計というのは、軍学校から始まり、帝国大学等に広まったそうです。
ちなみに、夏目漱石さんの作品で「虞美人草」に登場する、主人公・小野は大学で銀時計を授与されたという設定で描かれています。
高橋貞太郎さんの建築の特徴として、復興建築助成株式会社で震災復興の現場指揮をとっていた経験を活かし、随所に震災の教訓を組み込んだ構造、防災面の配慮がなされています。
大正10年(1921)、宮内省内匠寮技師となり、赤坂離宮の改修、宮廷の建設に関わりました。
大正14年(1925)には学士会館の設計競技(コンペ)に入賞しています。
昭和5年(1930)、帝国ホテル支配人である犬丸徹三氏との邂逅を得て独立し、ホテル建築のスペシャリストになりました。
「上高地ホテル」や「川奈ホテル」などは、高橋貞太郎氏が手掛けたものになります。
フランク・ロイド・ライト氏設計の旧帝国ホテル本館解体後の新本館設計の際、多数の保存支持者から批判を受けるも、その設計に精力を注ぎ込みました。
高橋貞太郎氏は、イギリス流の邸宅を得意としており、その代表格の1つとして、旧前田侯爵邸があげられると思います。
みなさん、こんにちは。ガイドの青柳です。

旧朝倉家住宅は大正8年(1919)に米穀商、朝倉虎治郎氏によって、猿楽町の南西斜面を利用して建てられました。
朝倉家は明治2年に精米業を始めます。
朝倉虎治郎さんの時代には白米商としては、東京一の商家になりました。

旧朝倉家住宅の敷地に入ると、まず車庫があります。
市街地化が急速に進む当時の東京の周縁部で自動車は必須の道具となります。
≪車庫の特徴≫
①屋根を支える洋風の構造
②コンクリートの土間
③両妻の内側の波形銅板
これらは自動車が普及し始めた頃の車庫の仕様になります。

江戸時代までの日本の建築では、戸は障子戸で敷居の上を滑らせていました。
それが明治時代になると、障子戸からガラス戸へ変化していきます。
ガラス戸は障子戸よりも重たいので、ガラス戸に車輪を付けて、敷居の代わりに鉄のレールの上を戸が行き来するようになりました。
それに対して、朝倉家のガラス戸は鉄ではなく、堅木のレールを用いました。
これは鉄錆による汚損がなく、一つ一つのレールも短かったので、楽に交換が可能だったそうです。
ところが、この木製レールはあまり普及しなかったようです。

旧朝倉家住宅の庭園は崖線という特徴を持っています。
崖線とは、斜面を利用して作庭された庭園を指しています。
斜面に植えられた木々の演出効果は、独特の景観を造り出します。
特に、邸宅の中から見た庭園の風景と、崖線の下から見上げた風景はそれぞれ異なった味を出しています。
この崖線を持つ庭園は他に、国分寺の殿ヶ谷庭園などがあります。
かつては尾根沿いに三田用水が流れ、崖線の下には水田や畑が広がり、西には富士山がよく見えたそうです。
敷地内の各所で富士山を見ることができました。
旧朝倉家住宅は、見晴らしの良い高台に建物や庭を作って、その景観や田園風景が楽しめるようになっていたと言われています。
庭園の奥に、鉄筋コンクリート造り、切妻2階建ての土蔵があります。
住居との連結部分以外の壁面には、火災の時に濡れた藁を巻き付けるための鉤が施されており、鉤の周りの漆喰が丘状に盛り上がっています。
旧朝倉家住宅は、大正時代の特徴的な邸宅として、現在、国の重要文化財に指定されています。

旧朝倉家住宅は大正8年(1919)に米穀商、朝倉虎治郎氏によって、猿楽町の南西斜面を利用して建てられました。
朝倉家は明治2年に精米業を始めます。
朝倉虎治郎さんの時代には白米商としては、東京一の商家になりました。

旧朝倉家住宅の敷地に入ると、まず車庫があります。
市街地化が急速に進む当時の東京の周縁部で自動車は必須の道具となります。
≪車庫の特徴≫
①屋根を支える洋風の構造
②コンクリートの土間
③両妻の内側の波形銅板
これらは自動車が普及し始めた頃の車庫の仕様になります。

江戸時代までの日本の建築では、戸は障子戸で敷居の上を滑らせていました。
それが明治時代になると、障子戸からガラス戸へ変化していきます。
ガラス戸は障子戸よりも重たいので、ガラス戸に車輪を付けて、敷居の代わりに鉄のレールの上を戸が行き来するようになりました。
それに対して、朝倉家のガラス戸は鉄ではなく、堅木のレールを用いました。
これは鉄錆による汚損がなく、一つ一つのレールも短かったので、楽に交換が可能だったそうです。
ところが、この木製レールはあまり普及しなかったようです。

旧朝倉家住宅の庭園は崖線という特徴を持っています。
崖線とは、斜面を利用して作庭された庭園を指しています。
斜面に植えられた木々の演出効果は、独特の景観を造り出します。
特に、邸宅の中から見た庭園の風景と、崖線の下から見上げた風景はそれぞれ異なった味を出しています。
この崖線を持つ庭園は他に、国分寺の殿ヶ谷庭園などがあります。
かつては尾根沿いに三田用水が流れ、崖線の下には水田や畑が広がり、西には富士山がよく見えたそうです。
敷地内の各所で富士山を見ることができました。
旧朝倉家住宅は、見晴らしの良い高台に建物や庭を作って、その景観や田園風景が楽しめるようになっていたと言われています。
庭園の奥に、鉄筋コンクリート造り、切妻2階建ての土蔵があります。住居との連結部分以外の壁面には、火災の時に濡れた藁を巻き付けるための鉤が施されており、鉤の周りの漆喰が丘状に盛り上がっています。
旧朝倉家住宅は、大正時代の特徴的な邸宅として、現在、国の重要文化財に指定されています。
みなさん、こんにちは。ガイドの青柳です。
増上寺は浄土宗の僧侶育成の場「関東十八檀林※」の筆頭という格を持ち、「総録所」として浄土宗を統括する寺院です。
※檀林...仏教における僧侶育成のための学問所。「関東十八檀林」は関東地方で僧侶を育成する18の寺院、伝法道場。17世紀の初頭に源誉存応上人がその基礎を築く。
檀林は他に...
◯鎌倉・光明寺
◯鴻巣・勝願寺
◯那珂郡瓜蓮・常福寺(茨城県)
◯館林・善導寺
◯深川・霊巌寺
...などがあげられます。
この18という数は、一切衆生の救済を誓った弥陀の十八願にならって、徳川松平十八公の盛運を祈って整えたと言われています。
4代将軍家綱公の頃には、増上寺に敷地は25万坪にまで達し、120以上の堂宇、200を超える学寮が立ち並ぶようになり、学僧は常に300人にも及びました。
関東十八檀林の筆頭として、多くの学僧を抱えていた増上寺ですが、この「檀林」と呼ばれる学問所は、江戸時代の寺社制度が確立されると、その役割は非常に重要なものになっていきます。
江戸時代、寺社制度が始まったきっかけは、キリスト教弾圧と関係があります。
全ての人は、キリスト教徒ではないことを証明するため、いずれかの寺院の檀家になり、その証明書をもらいました。
それが寺請証文であり、寛永12年(1635)に開始されました。
そして、2年後に勃発した島原の乱以降、全国的に広がっていきました。
幕府は寺社制度を適用させることによって、宗教統制を計ったということになります。
〈寺社制度のルール〉
①民衆は固定した寺院の檀家にならなければならない。
②菩提寺の変更は結婚のとき以外は禁止
③キリスト教の監視
事実上、寺院に民衆の戸籍があり、結婚、引越し、奉公、検死、埋葬、旅行等の際は、寺院の寺請証文が必要になります。
この寺社制度の確立は、江戸時代、寺院運営をするにあたり、メリットとデメリットの両方を併せ持つことになりました。
メリットは、寺院が固定の檀家を持つことにより、寺院運営の経済的基盤は、盤石になり安定しました。
しかし、一方で、寺社制度は自由な布教活動を禁止するものでもありました。
基本的に菩提寺の変更は認められていないので、布教により新たな檀家を獲得することができなかったということになります。
その結果、教団、寺院は布教によって勢力を伸ばせず、可能であった活動は、固定化された檀家を教化することだけでした。
「布教」というものは、その成果をあげるのに、相当な研鑽と情熱が必要になります。
ところが、寺社制度ができ、活動が制限されたことで、布教への情熱が鈍化してしまうことになりました。
そこで、法灯を護り伝承し続けることを可能にしたのが、檀林になります。
檀林は僧侶のための学問所という性質を持っているので、布教ではなく、教学によって教えを浸透させるようになっていきます。
檀林の存在は、寺院の運営をサポートしていたと言えます。

江戸時代の古地図を見ますと、増上寺の右下左下に、「学寮」がたくさん並んでいます。
増上寺は浄土宗の最高位の学校であり、そこで学んでいる学僧達の念仏が常に聞こえていたことでしょう。
増上寺は浄土宗の僧侶育成の場「関東十八檀林※」の筆頭という格を持ち、「総録所」として浄土宗を統括する寺院です。
※檀林...仏教における僧侶育成のための学問所。「関東十八檀林」は関東地方で僧侶を育成する18の寺院、伝法道場。17世紀の初頭に源誉存応上人がその基礎を築く。
檀林は他に...
◯鎌倉・光明寺
◯鴻巣・勝願寺
◯那珂郡瓜蓮・常福寺(茨城県)
◯館林・善導寺
◯深川・霊巌寺
...などがあげられます。
この18という数は、一切衆生の救済を誓った弥陀の十八願にならって、徳川松平十八公の盛運を祈って整えたと言われています。
4代将軍家綱公の頃には、増上寺に敷地は25万坪にまで達し、120以上の堂宇、200を超える学寮が立ち並ぶようになり、学僧は常に300人にも及びました。
関東十八檀林の筆頭として、多くの学僧を抱えていた増上寺ですが、この「檀林」と呼ばれる学問所は、江戸時代の寺社制度が確立されると、その役割は非常に重要なものになっていきます。
江戸時代、寺社制度が始まったきっかけは、キリスト教弾圧と関係があります。
全ての人は、キリスト教徒ではないことを証明するため、いずれかの寺院の檀家になり、その証明書をもらいました。
それが寺請証文であり、寛永12年(1635)に開始されました。
そして、2年後に勃発した島原の乱以降、全国的に広がっていきました。
幕府は寺社制度を適用させることによって、宗教統制を計ったということになります。
〈寺社制度のルール〉
①民衆は固定した寺院の檀家にならなければならない。
②菩提寺の変更は結婚のとき以外は禁止
③キリスト教の監視
事実上、寺院に民衆の戸籍があり、結婚、引越し、奉公、検死、埋葬、旅行等の際は、寺院の寺請証文が必要になります。
この寺社制度の確立は、江戸時代、寺院運営をするにあたり、メリットとデメリットの両方を併せ持つことになりました。
メリットは、寺院が固定の檀家を持つことにより、寺院運営の経済的基盤は、盤石になり安定しました。
しかし、一方で、寺社制度は自由な布教活動を禁止するものでもありました。
基本的に菩提寺の変更は認められていないので、布教により新たな檀家を獲得することができなかったということになります。
その結果、教団、寺院は布教によって勢力を伸ばせず、可能であった活動は、固定化された檀家を教化することだけでした。
「布教」というものは、その成果をあげるのに、相当な研鑽と情熱が必要になります。
ところが、寺社制度ができ、活動が制限されたことで、布教への情熱が鈍化してしまうことになりました。
そこで、法灯を護り伝承し続けることを可能にしたのが、檀林になります。
檀林は僧侶のための学問所という性質を持っているので、布教ではなく、教学によって教えを浸透させるようになっていきます。
檀林の存在は、寺院の運営をサポートしていたと言えます。

江戸時代の古地図を見ますと、増上寺の右下左下に、「学寮」がたくさん並んでいます。
増上寺は浄土宗の最高位の学校であり、そこで学んでいる学僧達の念仏が常に聞こえていたことでしょう。
みなさん、こんにちは。ガイドの青柳です。

三縁山広度院増上寺は、明徳4年(1393)、現在の東京都平河町付近に創建されました。
増上寺は浄土宗になりますが、浄土宗は比叡山に学んだ法然上人が承安5年に開いた宗派になります。
浄土宗の教えは、救いは念仏を称えることで得られるという「専修念仏(せんじゅねんぶつ)」の考えに基づいています。
これは、念仏を称えることが全ての人々を阿弥陀仏に救ってもらえる、言わば、他力の教えということになり、経典を学ぶ時間、寺院への寄進や参詣を行う余裕がなかった方々に希望を与えることになりました。
それゆえに、浄土宗は比叡山などの従来の宗派から非難や迫害を受けることもありましたが、法然上人や弟子達の布教によって、鎌倉時代には、浄土宗の教えが全国的に広がっていきました。
室町時代、了誉聖冏(りょうよしょうげい)上人が浄土宗の僧侶となるための伝法制度を確立しました。
この聖冏上人に師事し、武蔵の国で布教活動を行っていたのが、酉誉聖聰(ゆうよしょうそう)上人です。
この聖聰上人こそが、明徳4年に増上寺を開いた僧侶になります。
聖聰上人は千葉氏、佐竹氏といった土着の武家の援助のもと、増上寺を江戸の念仏布教、伝法道場の中心として発展させました。
戦国時代の乱世にも荒廃せず、浄土宗の関東における一大拠点として、存在し続けることになりました。
天正18年(1590)、徳川家康公が江戸城に入城されると、当時の増上寺の住職であった源誉存応(げんよぞんのう)上人と親交を持ち、増上寺は徳川家の菩提所になります。
慶長3年(1598)、江戸城拡張に伴い、現在地の芝に移りました。
増上寺の大造営が行われたのは、関ヶ原の合戦後、数年で本堂、三門、経蔵など、七大伽藍が完成、徳川家の菩提所、かつ浄土宗の伝法道場として、大いに隆盛していくことになりました。
また、存応上人が後陽成天皇から善光観智国師※の諡号を賜り、寺格としても関東本山の鎌倉・光明寺を抜き、総本山知恩院と同格の存在となっていきました。
※国師:高僧に対して朝廷から贈られる諡号の一つ。
慶長6年(1601)、家康公の黒本尊※が増上寺に安置されるようになります。
※黒本尊:家康公が幾多の戦場に常に肌身離さず持っていた守り神。
慶長10年(1605)に本堂、三解脱門、経蔵が完成をみると、2代将軍秀忠公以降の墓所「御霊屋」が増上寺の南北の敷地に造営されていきます。
御霊屋が造営されていく度に、その別当寺院も造られていき、増上寺の堂宇と寺領は年とともに拡がっていきました。
聖聰上人が開山した増上寺は浄土宗の最高の寺格を持ち、また将軍家の菩提寺として、現在も存在し続けています。

三縁山広度院増上寺は、明徳4年(1393)、現在の東京都平河町付近に創建されました。
増上寺は浄土宗になりますが、浄土宗は比叡山に学んだ法然上人が承安5年に開いた宗派になります。
浄土宗の教えは、救いは念仏を称えることで得られるという「専修念仏(せんじゅねんぶつ)」の考えに基づいています。
これは、念仏を称えることが全ての人々を阿弥陀仏に救ってもらえる、言わば、他力の教えということになり、経典を学ぶ時間、寺院への寄進や参詣を行う余裕がなかった方々に希望を与えることになりました。
それゆえに、浄土宗は比叡山などの従来の宗派から非難や迫害を受けることもありましたが、法然上人や弟子達の布教によって、鎌倉時代には、浄土宗の教えが全国的に広がっていきました。
室町時代、了誉聖冏(りょうよしょうげい)上人が浄土宗の僧侶となるための伝法制度を確立しました。
この聖冏上人に師事し、武蔵の国で布教活動を行っていたのが、酉誉聖聰(ゆうよしょうそう)上人です。
この聖聰上人こそが、明徳4年に増上寺を開いた僧侶になります。
聖聰上人は千葉氏、佐竹氏といった土着の武家の援助のもと、増上寺を江戸の念仏布教、伝法道場の中心として発展させました。
戦国時代の乱世にも荒廃せず、浄土宗の関東における一大拠点として、存在し続けることになりました。
天正18年(1590)、徳川家康公が江戸城に入城されると、当時の増上寺の住職であった源誉存応(げんよぞんのう)上人と親交を持ち、増上寺は徳川家の菩提所になります。
慶長3年(1598)、江戸城拡張に伴い、現在地の芝に移りました。
増上寺の大造営が行われたのは、関ヶ原の合戦後、数年で本堂、三門、経蔵など、七大伽藍が完成、徳川家の菩提所、かつ浄土宗の伝法道場として、大いに隆盛していくことになりました。
また、存応上人が後陽成天皇から善光観智国師※の諡号を賜り、寺格としても関東本山の鎌倉・光明寺を抜き、総本山知恩院と同格の存在となっていきました。
※国師:高僧に対して朝廷から贈られる諡号の一つ。
慶長6年(1601)、家康公の黒本尊※が増上寺に安置されるようになります。
※黒本尊:家康公が幾多の戦場に常に肌身離さず持っていた守り神。
慶長10年(1605)に本堂、三解脱門、経蔵が完成をみると、2代将軍秀忠公以降の墓所「御霊屋」が増上寺の南北の敷地に造営されていきます。
御霊屋が造営されていく度に、その別当寺院も造られていき、増上寺の堂宇と寺領は年とともに拡がっていきました。
聖聰上人が開山した増上寺は浄土宗の最高の寺格を持ち、また将軍家の菩提寺として、現在も存在し続けています。
みなさん、こんにちは。ガイドの青柳です。
今日は、旧前田侯爵邸の構造について、ご紹介したいと思います。
前田侯爵邸は地上3階、地下1階の洋館と、その洋館を渡り廊下で結んだ2階建て和館から構成されています。
駒場野の林をそのまま生かした奥庭や広場もあり、使用人は100人以上もいたそうです。
前田侯爵邸は、当時、東洋一の大邸宅と言われました。

洋館1階は、外交団や皇族方を招くパーティーが催される場として使用されました。
地下の厨房から配膳用のリフトで1階小食堂と2階配膳室へ料理を運びます。

こちらは、1階にある「イングルヌック」という場所です。
この空間はこじんまりとしたスペースに暖炉とソファーがあります。
イングルヌックとは、「暖かくて心地よい場所」という意味のスコットランド古語で、建築用語としては、「暖炉の側の暖かく、コンパクトな団欒の場所」を指します。

洋館2階は、家族の生活の場として使用されました。
2階には夫婦の寝室に、家族団欒用の婦人室、子供部屋があり、前田侯爵の書斎には、電話や呼び鈴が引かれ、電話は8回線、電話交換手が別棟で取り次ぐ仕組みです。

また、旧前田侯爵邸の壁には「スクラッチタイル」を使っています。
それでは、スクラッチタイルというものが何かご紹介する前に、明治初期から昭和初期にいたるまで、日本の建築がどのように変化をしていったのか書いておきたいと思います。
明治5年(1872)の銀座大火は隣の築地など、周辺の街を焼き尽くしてしまいました。
そこで、耐火構造建築として、赤煉瓦が推奨されるようになります。
東京府主導で銀座の赤煉瓦街を形成し、赤煉瓦と帯状の石材を組み合わせた「辰野式煉瓦建築」が登場します。
例えば、東京駅もその中の一つで、大量の鉄骨を使った煉瓦建築、関東大震災にも耐えました。
ところが、基本的に煉瓦は地震に弱く、震災後、煉瓦建築から鉄筋コンクリートへと移行していきました。
コンクリートの外壁を被覆するために生まれたのが、薄い張付化粧煉瓦を使った外装タイルです。
その後、フランク・ロイド・ライトさんが大正12年(1923)に帝国ホテルを設計した際に、外壁に大谷石と常滑産のスクラッチ煉瓦を使用すると、それが引き金になり、官庁や大学、金融機関などの建物に、スクラッチタイルを張ったものが建造され、昭和3年~6年にかけてピークを向かえました。
ライトさんが使用したスクラッチタイルは、張付化粧煉瓦とは異なるもので、煉瓦の表層部にスクラッチ(引っ掻き)模様を刻んだ無釉(むゆう)※煉瓦になります。
※釉(うわぐすり)...陶磁器の表面をガラス質にするためにかける薬品。表面を滑らかにし、液体や気体が染み込まないようにする。
旧前田侯爵邸は、昭和初期に造られたスクラッチタイルの建造物の1つになります。
機能的であり、モダンな前田侯爵邸は、当時の日本橋の建築物の中で、最先端の邸宅であり、多くの方々が、その素晴らしさに賞賛したことでしょう。
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今日は、旧前田侯爵邸の構造について、ご紹介したいと思います。
前田侯爵邸は地上3階、地下1階の洋館と、その洋館を渡り廊下で結んだ2階建て和館から構成されています。
駒場野の林をそのまま生かした奥庭や広場もあり、使用人は100人以上もいたそうです。
前田侯爵邸は、当時、東洋一の大邸宅と言われました。

洋館1階は、外交団や皇族方を招くパーティーが催される場として使用されました。
地下の厨房から配膳用のリフトで1階小食堂と2階配膳室へ料理を運びます。

こちらは、1階にある「イングルヌック」という場所です。
この空間はこじんまりとしたスペースに暖炉とソファーがあります。
イングルヌックとは、「暖かくて心地よい場所」という意味のスコットランド古語で、建築用語としては、「暖炉の側の暖かく、コンパクトな団欒の場所」を指します。

洋館2階は、家族の生活の場として使用されました。
2階には夫婦の寝室に、家族団欒用の婦人室、子供部屋があり、前田侯爵の書斎には、電話や呼び鈴が引かれ、電話は8回線、電話交換手が別棟で取り次ぐ仕組みです。

また、旧前田侯爵邸の壁には「スクラッチタイル」を使っています。
それでは、スクラッチタイルというものが何かご紹介する前に、明治初期から昭和初期にいたるまで、日本の建築がどのように変化をしていったのか書いておきたいと思います。
明治5年(1872)の銀座大火は隣の築地など、周辺の街を焼き尽くしてしまいました。
そこで、耐火構造建築として、赤煉瓦が推奨されるようになります。
東京府主導で銀座の赤煉瓦街を形成し、赤煉瓦と帯状の石材を組み合わせた「辰野式煉瓦建築」が登場します。
例えば、東京駅もその中の一つで、大量の鉄骨を使った煉瓦建築、関東大震災にも耐えました。
ところが、基本的に煉瓦は地震に弱く、震災後、煉瓦建築から鉄筋コンクリートへと移行していきました。
コンクリートの外壁を被覆するために生まれたのが、薄い張付化粧煉瓦を使った外装タイルです。
その後、フランク・ロイド・ライトさんが大正12年(1923)に帝国ホテルを設計した際に、外壁に大谷石と常滑産のスクラッチ煉瓦を使用すると、それが引き金になり、官庁や大学、金融機関などの建物に、スクラッチタイルを張ったものが建造され、昭和3年~6年にかけてピークを向かえました。
ライトさんが使用したスクラッチタイルは、張付化粧煉瓦とは異なるもので、煉瓦の表層部にスクラッチ(引っ掻き)模様を刻んだ無釉(むゆう)※煉瓦になります。
※釉(うわぐすり)...陶磁器の表面をガラス質にするためにかける薬品。表面を滑らかにし、液体や気体が染み込まないようにする。
旧前田侯爵邸は、昭和初期に造られたスクラッチタイルの建造物の1つになります。
機能的であり、モダンな前田侯爵邸は、当時の日本橋の建築物の中で、最先端の邸宅であり、多くの方々が、その素晴らしさに賞賛したことでしょう。