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青柳 竜馬 |
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みなさん、こんにちは。ガイドの青柳です。
明治26年になり、日本海軍は国産の「下瀬火薬」を採用することになります。
従って、日露戦争で使用された砲弾のほとんどが「下瀬火薬」をつめたものでした。
下瀬火薬とは、明治21年に、「下瀬雅允(まさちか)海軍技士」によって開発され、その名を取ったものになります。
しかし、一説によると、その開発経緯は、フランスの化学者「テュルパン氏」が発明
したピクリン酸系のメリニット爆薬を模倣したという説もあります。
下瀬火薬の主成分はピクリン酸で、これは金属に触れると発火しやすい化合物を生成し、激しく反応します。
その攻撃力は凄まじいものがありましたが、
それゆえ、使用する側にも大きな危険性を持っていたことになります。
黄海海戦、日本海海戦を通じて、
第1、第2艦隊の12隻中、9隻で弾丸が砲身内で破裂を起こしたそうです。
そこで、砲身内破裂を防止するため、砲身の内外を海水で冷やしながら砲撃をするようにしました。
このように、下瀬火薬の威力は大変強いものでありましたが、その力を最大限に引き
出していたのが「伊集院※信管」になります。
※信管:弾丸の頭部、又は底部に取り付けられ、弾丸の炸薬に点火して爆発させるためのもの。
信管はその作動の仕方によって、「着発信管」、「時限信管」、「近接信管」、「復動信管」の4種に大別され、
弾丸が目標物に命中したときの衝撃によって発火する信管が着発信管で、伊集院信管はこれに含まれます。
伊集院信管は、「伊集院五郎海軍少将(後に元帥海軍大将)」が下瀬火薬用の即働信管として開発し、
明治33年(1900)に正式採用されました。
伊集院信管採用までに、下瀬火薬の下瀬海軍技師も弾底着発信管の開発に携わっていましたが、
発火遅延を理由に海軍から採用を却下されていました。
そこで、選定委員会の側であった伊集院五郎海軍少将が自ら開発する側に回り、超即働信管を開発するに至りました。
日本海軍が即働性の信管に重点を置いていたのに対し、ロシア海軍の砲弾用信管は遅働性を重視し開発されました。
それは、装甲板を突き破って艦内に進入後爆発する特徴を持っています。
伊集院信管は、鋭敏でマストの※鋼索に当たっても確実に作動する点で、
その能力は高いものがありましたが、それゆえ、砲身内での安全面に問題がありました。
※鋼索・鋼製の針金を何本も寄り合わせて作った綱。ワイヤーロープ。
伊集院信管の作動不良と下瀬火薬の過敏が原因で生じた事故もあり、
黄海海戦では、三笠後部12インチ主砲塔右砲を失いました。
しかし、下瀬火薬、伊集院信管を採用した弾丸の威力が、日本海軍を勝利へと導いた大きな要因だと思います。
その力は、日露戦争後、日本海軍は下瀬火薬や伊集院信管を、
1920年代まで長く使用し続けられたことからも感じられてきます。