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青柳 竜馬 |
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みなさん、こんにちは。ガイドの青柳です。
海軍経理学校はかつて築地にありました。
元は明治7年、前身の海軍会計舎が芝山内天神谷に設けられ、
明治21年、築地、浴恩園※跡に移っていきました。
※浴恩園:松平定信公の江戸築地下屋敷。広さ約15000坪。完成は、寛政5、6年(1793,4)頃。
庭園内には、桜に囲まれた「春風の池」と紅葉に囲まれた「秋風の池」などがある。
そこから、海軍経理学校の生徒のクラス会を「浴恩会」と称するようになりました。
校舎はその後、数回、移改築を経て、昭和7年(1932)、築地西側に設置されました。
そして、昭和10年に魚市場がその場所に入ってくることになります。
太平洋戦争中は、就学人数が激増したため、品川など、三ヶ所に校舎増設もしました。
海軍経理学校は明治7年に海軍会計学舎として創設されて以降、太平洋戦争終結後、
帝国海軍が解体されるまで置かれた、海軍主計科要員の養成学校で、海軍三校※の1つになります。
※海軍三校
◯海軍兵学校:築地→江田島(明治21年)
◯海軍経理学校:芝山内→築地
◯海軍機関学校:横須賀(明治34年/1901)→江田島(大正12年~大正14年/1923~1925)→舞鶴(後に海軍兵学校に統合)
海軍経理学校の修業期間は、当初3年、その後、昭和3年度からは3年8ヶ月、
さらに昭和9年度からは4年に延長されましたが、昭和13年度の第30期からは3年、
その後は段階的に短縮されていき、2年4ヶ月になりました。
主計科士官の増員に際して、従来の修業期間4年(生徒3年、候補生1年)では間に合わなくなってきたため、
「2年現役制度」という大幅な活用を行いました。
そのルールとしては...
①大学の法学部、経済学部、商学部を卒業した者、
または、高等文官試験合格者から、選考試験によって、現役海軍士官として採用。
②採用者は主計中尉に任官、海軍経理学校で4ヶ月程度の基礎教育を受けた後、実施部隊に所属。
③服務期間は2年、期間満了後は、一階級進級し予備役へ昇格。
このような士官のことを「主計科短現士官」と言い、2年間の短期現役に服務することから、
通称「短現」と呼ばれました。
その後は、採用される学歴を高等専門学校、旧制高等学校にも拡大し、主計少尉候補
生として採用され、基礎教育後に主計少尉に任用しました。
また、日米開戦後には、一定期間の基礎教育終了後に大学卒業者は主計中尉、高等専
門学校卒業者は主計少尉にする制度に改められました。
海軍経理学校へは、東京帝国大学、慶應義塾大学、東京商科大学(現一橋大学)等、
有名大学の卒業生の多くが志願者として殺到し、戦後、政財界で活躍する人物を多く輩出することになりました。
その出身者は、石橋幹一郎氏(元ブリヂストン社長・会長)や中曽根康弘氏などがいます。
戦前は多くの生徒を抱え、戦後日本を支えた、政治家、実業家を輩出した海軍経理学校、
その碑は、今は勝どき橋袂にひっそりと佇んでいます。
「お茶の水」という名前の由来は、かつて、その界隈に金峰山高林寺という曹洞宗の禅寺がございました。その境内に泉が湧き出ており、2代将軍秀忠公の鷹狩りで当寺を訪れたときに、その水を献上したところ、大変に喜ばれたということから、以後、江戸城内に献上されるようになったそうです。
そして、お茶を点てる際に使用されるようになり、将軍専用の水となりました。
高林寺は、いつしか「御茶の水高林寺」と呼ばれるようになり、「お茶の水」の地名の由来となりました。
しかし、振袖火事(明暦3年・1657)で、高林寺は駒込に移転を余儀なくされます。
名水「お茶の水の井戸」は大火後も残りましたが、寛文元年(1661)、伊達綱宗公(伊達政宗公の孫)が神田川の拡張工事を行った結果、井戸も川底に消えてしまいました。
神田川の開発によって、将軍を喜ばせた名水は姿を消してしまいましたが、先日もご紹介したように、関口で分けられた上水は江戸市中へと供給され、町民の生活を支えることになります。
神田川に架けられた掛樋を上水が通っていきましたが、お茶の水側にその掛樋があり、それに平行して架かっていた橋が「水道橋」。

この絵は「江戸名所図会」の水道橋の様子を描いたものです。
「見下ろせば木曽思い出すお茶の水(木曽の渓谷に似ている)」
水道橋が架かっているあたりの川からの景色は、風光明媚な場所として知られていました。
昌平黌の教授や近くに住む漢学者達が、四季折々の紅葉、月を愛でたと言われています。
このような知識人達は、この風景を「小赤壁」、「茗渓」と称えました。
絵の右側の岸に、小屋のようなものが建っているのが見えます。
これは、「森山」という人気の蒲焼き屋を描いていると言われています。
森山は、嘉永5年(1852)に発行された「江戸前大蒲焼」という番付表にも掲載され、江戸の鰻屋221軒が書かれた番付の「世話役」という地位として書かれている名店です。
森山は神田川に架かる上水道の管理小屋と鰻屋を兼業していたと言われており、江戸名所図会を始め、書物の挿絵や浮世絵の中にも登場しています。
しかし、下記の川柳をご覧ください...
「森山と言えど所は坂の下」
この川柳に出てくる「坂」を昌平坂と解釈すると、森山は水道橋付近ではなく、昌平坂の下にあったことになり、江戸名所図会と矛盾してしまいます。
実際の森山がどこにあったのか、それはとても興味深いところですが、いずれにせよ、当時の知識人達や文人達に愛されたのは、水道橋~昌平橋あたりまでということになるのではないないでしょうか...。
「峨眉山※月は森山の客が誉め」
※峨眉山(がびさん)...中国四川省にある山、道教や仏教の聖地。中国3大霊山(五台山、天台山)や中国4大仏教名山(五台山、九華山、普陀山)の1つにあたる。
江戸時代の風景を、現存する絵や川柳など頼りに繋ぎ合わせていくと、景勝地・神田川が見えてくるような気がします。
松尾芭蕉像は万年橋のたもとにあります。像がある場所は現在、芭蕉庵史跡展望庭園になっています。
松尾芭蕉さんは、正保元年(1644)、伊賀上野で生まれます。
寛文12年(1672)、江戸へやっていきまして、日本橋に桃青庵を結び、約8年暮らします。
松尾芭蕉さんが深川へ来たのが延宝8年(1680)、現在の史跡展望庭園の場所に松尾芭蕉さんの門弟でもあり、スポンサーでもあった杉山杉風さんによって、草庵を結ぶことになりました。
以降、深川芭蕉庵を中心に創作活動を行います。
松尾芭蕉さんが深川へ移ると、小名木川を挟んで反対側、臨川寺に住む仏頂禅師の元に通うようになり、禅や漢学、老子思想を学びました。
仏頂禅師は鹿島にある根本寺の和尚でしたが、深川臨川寺に住んでいたのには、とある事情がありました。
江戸時代初期に、根本寺は幕府によって、鹿島神宮から寺領100石を与えられていました。
ところが、その寺領が鹿島神宮に戻されてしまい、根本寺の和尚の仏頂禅師が起訴を起こすことになります。
その間、臨川寺に仮住まいをしていた際に、松尾芭蕉さんと出会うことになりました。
その後、仏頂禅師は裁判に勝利し、再び寺領が戻ってきましたが、根本寺には留まらず、禅僧として諸国を行脚するようになりました。
この仏頂禅師の生き方が、松尾芭蕉さんの生き方に大きく影響を与えることになりました。
松尾芭蕉さんの紀行文に「鹿島紀行」というものがあります。
この紀行文は、根本寺に一時的に滞在していた仏頂禅師がお月見をしに、是非、根本寺に来るよう、松尾芭蕉さんに手紙を出し、自宅の芭蕉庵前から船で鹿島まで行くまでの記録を綴ったものになります。
小名木川から江戸川まで出ると浦安沖(ディズニーランドの前あたり)を通り、鹿島根本寺まで行きました。
参考までに、有名な「おくの細道」は、小名木川の南を流れる仙台堀川から出発し、千住まで船で行きました。
その出発地点は、仙台堀川にかかる海辺橋袂にある採茶庵、門弟の杉山杉風さんの草庵になります。
松尾芭蕉さんは、この深川の地において、多くの俳句を残しました。
「有りがたや、いただいて踏、はしの霜」
この俳句は、新大橋が架橋された元禄6年(1693)まで、隅田川には橋が、大橋(両国橋)、千住大橋の2橋しかなく、江戸市中と深川とを結ぶ交通の便が良くなかったのですが、自宅近くに新しい橋が架かり、その喜びを句に表したものになります。
「川上と、この川下や、月の友」
この俳句は、松尾芭蕉さんが病没される前年(元禄6年)の秋に、小名木川に舟を浮かべ、五本松付近(猿江2丁目)で吟じられたものです。
~今宵は名月、私は小名木川の五本松で川面に揺れる月を眺めているが、この同じ川上には、私の親友も同じ月を眺めていることだろう~
...という内容を吟ったそうです。
この「月の友」とは一体誰であるのかは、未だ明確にはなっていないようですが、恐らく、文芸面での大親友であった山口素堂さんであろうと言われています。
そして、現在は、芭蕉記念館を始めとし、江東エリアに、多くの芭蕉句碑が残されています。
みなさん、こんにちは。ガイドの青柳です。

隅田川から神田川に入り、2番目に見えて来る橋が、「浅草橋」です。
浅草橋の創架は元和2年(1616)、江戸時代の初期の頃にはすでに存在していました。
創架から20年後、寛永13年(1636)に見附門が設置され、浅草橋は奥州街道が通り、浅草観音への主要ルートになります。
そして、この見附門は「浅草御門」と呼ばれるようになりました。
ちなみに、「見附」とは、幕府が主要交通路の重要な地点に櫓、門、橋を築き、江戸城を警備させるようにし、警備の人を配置したことから名付けられています。
浅草御門ができるまでは、日本橋川に架かっていた常磐橋が浅草口でした。
その後、浅草御門が完成し、奥州・日光街道の第1拠点となっていきました。
このように江戸の街の交通の要衝であったと言われる浅草御門ですが、この御門にまつわるエピソードの中に悲しい物語があります。
明暦の大火の際、伝馬町に収監されていた囚人達が避難をするために、一時的に牢屋を解き放ちました。
そこで、囚人達は浅草御門へ殺到します。
しかし、それを見た見附にいる番人は脱獄と勘違いし、門を閉ざしてしまいました。
その結果、一般市民も御門から先に逃げられなくなってしまい、2万人もの溺死者、焼死者を出すことになってしまいました。
浅草御門の付近には、「郡代屋敷」と言うものがありました。
郡代とは、徳川家康公が江戸入府の際、伊奈忠次さんを代官頭に任命したことに端を発しています。
それが後に「関東郡代」と呼ばれるようになり、伊奈氏が12代に渡り世襲しました。
東郡代とは、関東一円、及び東海地方などの幕府領を管理する役職のことで、主な仕事は...
①年貢の徴収
②治水
③領民紛争の処理
...などが挙げられます。
それでは、代々、関東郡代を勤めた伊奈氏の始祖・伊奈忠次さんという人物とはどのような人物だったのでしょうか...
伊奈忠次さんは戦国期、徳川家家臣でしたが、三河一向一揆の際は、一揆方に与し、出奔してしまいます。
その後、長篠の戦いで功を挙げ、家臣に復帰すると、信康公の側近になりましたが、主君が切腹をさせられてしまうと、再び出奔し、堺に蟄居してしまいました。
しかし、本能寺の変が起こった際に、家康公の伊賀越えを助け、再び徳川家に帰参することになりました。
江戸幕府開府後、関東代官に任命されると、伊奈忠次さんは主に以下の政策を行いました。
①関東を中心に各地で検地、新田開発
②利根川、荒川などの河川改修
③木炭製造の炭焼き、養蚕、製塩を奨励
④桑、麻、楮※(こうぞ)などの栽培方法を伝授
※和紙の原料
このような功績により、伊奈忠次さんは農民の方々から厚い崇拝を受けることになりました。
そして、江戸時代、長きに渡って、関東郡代という責任ある役職を伊奈氏が世襲していきましたが、寛政4年(1792)、伊奈忠尊さんが失脚した後、勘定奉行がその職を兼務し、浅草橋の郡代屋敷に居住しました。
ところが、文化3年(1806)にお屋敷が焼失すると、その後は代官持ちになり、「馬喰町御用屋敷」と改称されますが、江戸町民からは、永く郡代屋敷と呼び続けられていきました。
当時の古地図を見ますと、浅草御門周辺は町人街が広がっています。
きっと、そこには数多くの棟割長屋が並んでいたのかと思います。
郡代屋敷はその町人街の中において、神田川に面した場所に、広大な敷地を有しており、そのお屋敷は、周囲を圧倒するような威容を誇っていたことでしょう。

連合艦隊司令長官・東郷平八郎さんは弘化4年(1848)生まれ、父は薩摩藩士・西郷実友さんになります。
幕末には、薩摩藩士として薩英戦争に従軍、戊辰戦争においては、新潟、函館を転戦し、阿波沖海戦や函館戦争、宮古湾海戦で戦いました。
明治維新後、明治4年(1871)~明治11年(1878)の間、イギリスに官費留学をします。
当時は軍人てはなく、鉄道技士を志していたそうです。
その際、東郷さんは国際法を学びました。
この経験が後の日清戦争の時、「浪速」の艦長として、停船の警告に応じないイギリスの商船・高陞号を撃沈。
これは国際法に反しない行為であるとして、それに基づいて正しく判断し、砲撃をしたと言われています。
この功績が、東郷さんが連合艦隊司令長官に人選される要素となったそうです。
日清戦争では、豊島沖海戦、黄海海戦、威海衛の戦いにおいて活躍しました。
日清戦争後、佐世保鎮守府司令長官を歴任し、明治34年(1901)に舞鶴鎮守府初代司令長官に就任しました。
舞鶴は来るべき対ロシア開戦に際して、ウラジオに対峙する形で設置をされた重要ポストで、日露戦争開戦前の明治36年(1903)、山本権兵衛さんによって、第一艦隊兼、連合艦隊司令長官に就任することになりました。
日露戦争の際は、旗艦・三笠に座乗し、ロシア東洋艦隊の基地である、旅順港攻撃(旅順港閉塞作戦)や黄海海戦など、海軍の作戦全般を指揮しました。
そして、日露戦争が佳境に差し掛かると、ロジェスト・ウェンスキー提督率いるロシアは最強艦隊「バルチック艦隊」を日本と遠く離れたリバウから出港させます。
明治38年(1905)5月27日、連合艦隊は日本海にて、バルチック艦隊を迎撃(日本海海戦)。
「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊は直ちに出動、これを撃滅せんとす。本日、天気晴朗なれども波高し」と大本営に打電。
そして、連合艦隊に対し...

「皇国の興廃、この一戦にあり。各員、一層奮励努力せよ」とZ旗を掲げ、全軍の士気を鼓舞しました。

この旗が開戦時に掲げられた「Z旗」です。
一般的に、Z旗の持つ意味は「曳舟(タグボート)がほしい」という意味になり、これは現在でも使用されています。
それに対し、海戦の場においては、ニュアンスが大幅に変わります。
「Z」はアルファベットで、一番最後に来る英文字です。
従って、この旗を掲げるということは、「この戦いに敗れれば、もう後はない」...それだけ大切な戦いであると言えます。
このZ旗は、イギリスのネルソン提督が、1805年のトラファルガー海戦の時、「英国は各人がその義務を尽くすことを期待する」という意味を込めて、はじめて用いたと言われています。
日本海海戦で圧勝したことによって、日露戦争のピリオドを打ち、日本の独立を守ることになりました。