ぽけかる倶楽部 ガイドレポート
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青柳 竜馬 |
クールな雰囲気、ハーフのような装い。その見た目とは裏腹に人情が厚く、生粋の埼玉っ子。
歴史に詳しく、野球に強い。まさに大人になった少年のような方ですが、ワンパクではありませんのでご安心を。 社員 黒木
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みなさん、こんにちは。ガイドの青柳です。

旧前田侯爵邸の設計者は帝国大学教授の塚本靖氏と、そして、宮内省内匠寮工務課技師、高橋貞太郎氏です。
今日は、その高橋貞太郎氏について、ご紹介していきたいと思います。
高橋貞太郎氏の作品は、聖徳記念絵画館、学士会館、日本橋高島屋などがあります。
高橋貞太郎氏は、明治25年に滋賀県で生まれました。
三高を経て、帝国大学工科大学建築学科に進学し、優秀な成績を修めたと言われています。
卒業時には、岡田信一郎氏※に次いで、天皇陛下より恩賜の銀時計を賜りました。
※岡田信一郎...大正・昭和初期に活躍した建築家。明治生命館、歌舞伎座(2010年取り壊し)、鳩山一郎邸等...
特に鳩山一郎氏とは、旧制中学時代からの友人。
「恩賜の銀時計」とは、明治維新から第二次世界対戦まで、陸軍士官学校、陸軍騎兵学校等の軍学校、帝国大学、学習院、商船学校で、各学部の成績優秀者に、陛下から褒章として、陛下臨席の卒業式で銀時計が授与されました。
従って、恩賜の銀時計は至高の名誉であったということになります。
このように銀時計を授与された者は、「銀時計組」と言われました。
元々、恩賜の銀時計というのは、軍学校から始まり、帝国大学等に広まったそうです。
ちなみに、夏目漱石さんの作品で「虞美人草」に登場する、主人公・小野は大学で銀時計を授与されたという設定で描かれています。
高橋貞太郎さんの建築の特徴として、復興建築助成株式会社で震災復興の現場指揮をとっていた経験を活かし、随所に震災の教訓を組み込んだ構造、防災面の配慮がなされています。
大正10年(1921)、宮内省内匠寮技師となり、赤坂離宮の改修、宮廷の建設に関わりました。
大正14年(1925)には学士会館の設計競技(コンペ)に入賞しています。
昭和5年(1930)、帝国ホテル支配人である犬丸徹三氏との邂逅を得て独立し、ホテル建築のスペシャリストになりました。
「上高地ホテル」や「川奈ホテル」などは、高橋貞太郎氏が手掛けたものになります。
フランク・ロイド・ライト氏設計の旧帝国ホテル本館解体後の新本館設計の際、多数の保存支持者から批判を受けるも、その設計に精力を注ぎ込みました。
高橋貞太郎氏は、イギリス流の邸宅を得意としており、その代表格の1つとして、旧前田侯爵邸があげられると思います。

旧前田侯爵邸の設計者は帝国大学教授の塚本靖氏と、そして、宮内省内匠寮工務課技師、高橋貞太郎氏です。
今日は、その高橋貞太郎氏について、ご紹介していきたいと思います。
高橋貞太郎氏の作品は、聖徳記念絵画館、学士会館、日本橋高島屋などがあります。
高橋貞太郎氏は、明治25年に滋賀県で生まれました。
三高を経て、帝国大学工科大学建築学科に進学し、優秀な成績を修めたと言われています。
卒業時には、岡田信一郎氏※に次いで、天皇陛下より恩賜の銀時計を賜りました。
※岡田信一郎...大正・昭和初期に活躍した建築家。明治生命館、歌舞伎座(2010年取り壊し)、鳩山一郎邸等...
特に鳩山一郎氏とは、旧制中学時代からの友人。
「恩賜の銀時計」とは、明治維新から第二次世界対戦まで、陸軍士官学校、陸軍騎兵学校等の軍学校、帝国大学、学習院、商船学校で、各学部の成績優秀者に、陛下から褒章として、陛下臨席の卒業式で銀時計が授与されました。
従って、恩賜の銀時計は至高の名誉であったということになります。
このように銀時計を授与された者は、「銀時計組」と言われました。
元々、恩賜の銀時計というのは、軍学校から始まり、帝国大学等に広まったそうです。
ちなみに、夏目漱石さんの作品で「虞美人草」に登場する、主人公・小野は大学で銀時計を授与されたという設定で描かれています。
高橋貞太郎さんの建築の特徴として、復興建築助成株式会社で震災復興の現場指揮をとっていた経験を活かし、随所に震災の教訓を組み込んだ構造、防災面の配慮がなされています。
大正10年(1921)、宮内省内匠寮技師となり、赤坂離宮の改修、宮廷の建設に関わりました。
大正14年(1925)には学士会館の設計競技(コンペ)に入賞しています。
昭和5年(1930)、帝国ホテル支配人である犬丸徹三氏との邂逅を得て独立し、ホテル建築のスペシャリストになりました。
「上高地ホテル」や「川奈ホテル」などは、高橋貞太郎氏が手掛けたものになります。
フランク・ロイド・ライト氏設計の旧帝国ホテル本館解体後の新本館設計の際、多数の保存支持者から批判を受けるも、その設計に精力を注ぎ込みました。
高橋貞太郎氏は、イギリス流の邸宅を得意としており、その代表格の1つとして、旧前田侯爵邸があげられると思います。
みなさん、こんにちは。ガイドの青柳です。

旧朝倉家住宅は大正8年(1919)に米穀商、朝倉虎治郎氏によって、猿楽町の南西斜面を利用して建てられました。
朝倉家は明治2年に精米業を始めます。
朝倉虎治郎さんの時代には白米商としては、東京一の商家になりました。

旧朝倉家住宅の敷地に入ると、まず車庫があります。
市街地化が急速に進む当時の東京の周縁部で自動車は必須の道具となります。
≪車庫の特徴≫
①屋根を支える洋風の構造
②コンクリートの土間
③両妻の内側の波形銅板
これらは自動車が普及し始めた頃の車庫の仕様になります。

江戸時代までの日本の建築では、戸は障子戸で敷居の上を滑らせていました。
それが明治時代になると、障子戸からガラス戸へ変化していきます。
ガラス戸は障子戸よりも重たいので、ガラス戸に車輪を付けて、敷居の代わりに鉄のレールの上を戸が行き来するようになりました。
それに対して、朝倉家のガラス戸は鉄ではなく、堅木のレールを用いました。
これは鉄錆による汚損がなく、一つ一つのレールも短かったので、楽に交換が可能だったそうです。
ところが、この木製レールはあまり普及しなかったようです。

旧朝倉家住宅の庭園は崖線という特徴を持っています。
崖線とは、斜面を利用して作庭された庭園を指しています。
斜面に植えられた木々の演出効果は、独特の景観を造り出します。
特に、邸宅の中から見た庭園の風景と、崖線の下から見上げた風景はそれぞれ異なった味を出しています。
この崖線を持つ庭園は他に、国分寺の殿ヶ谷庭園などがあります。
かつては尾根沿いに三田用水が流れ、崖線の下には水田や畑が広がり、西には富士山がよく見えたそうです。
敷地内の各所で富士山を見ることができました。
旧朝倉家住宅は、見晴らしの良い高台に建物や庭を作って、その景観や田園風景が楽しめるようになっていたと言われています。
庭園の奥に、鉄筋コンクリート造り、切妻2階建ての土蔵があります。
住居との連結部分以外の壁面には、火災の時に濡れた藁を巻き付けるための鉤が施されており、鉤の周りの漆喰が丘状に盛り上がっています。
旧朝倉家住宅は、大正時代の特徴的な邸宅として、現在、国の重要文化財に指定されています。

旧朝倉家住宅は大正8年(1919)に米穀商、朝倉虎治郎氏によって、猿楽町の南西斜面を利用して建てられました。
朝倉家は明治2年に精米業を始めます。
朝倉虎治郎さんの時代には白米商としては、東京一の商家になりました。

旧朝倉家住宅の敷地に入ると、まず車庫があります。
市街地化が急速に進む当時の東京の周縁部で自動車は必須の道具となります。
≪車庫の特徴≫
①屋根を支える洋風の構造
②コンクリートの土間
③両妻の内側の波形銅板
これらは自動車が普及し始めた頃の車庫の仕様になります。

江戸時代までの日本の建築では、戸は障子戸で敷居の上を滑らせていました。
それが明治時代になると、障子戸からガラス戸へ変化していきます。
ガラス戸は障子戸よりも重たいので、ガラス戸に車輪を付けて、敷居の代わりに鉄のレールの上を戸が行き来するようになりました。
それに対して、朝倉家のガラス戸は鉄ではなく、堅木のレールを用いました。
これは鉄錆による汚損がなく、一つ一つのレールも短かったので、楽に交換が可能だったそうです。
ところが、この木製レールはあまり普及しなかったようです。

旧朝倉家住宅の庭園は崖線という特徴を持っています。
崖線とは、斜面を利用して作庭された庭園を指しています。
斜面に植えられた木々の演出効果は、独特の景観を造り出します。
特に、邸宅の中から見た庭園の風景と、崖線の下から見上げた風景はそれぞれ異なった味を出しています。
この崖線を持つ庭園は他に、国分寺の殿ヶ谷庭園などがあります。
かつては尾根沿いに三田用水が流れ、崖線の下には水田や畑が広がり、西には富士山がよく見えたそうです。
敷地内の各所で富士山を見ることができました。
旧朝倉家住宅は、見晴らしの良い高台に建物や庭を作って、その景観や田園風景が楽しめるようになっていたと言われています。
庭園の奥に、鉄筋コンクリート造り、切妻2階建ての土蔵があります。住居との連結部分以外の壁面には、火災の時に濡れた藁を巻き付けるための鉤が施されており、鉤の周りの漆喰が丘状に盛り上がっています。
旧朝倉家住宅は、大正時代の特徴的な邸宅として、現在、国の重要文化財に指定されています。
みなさん、こんにちは。ガイドの青柳です。
今日は、旧前田侯爵邸の構造について、ご紹介したいと思います。
前田侯爵邸は地上3階、地下1階の洋館と、その洋館を渡り廊下で結んだ2階建て和館から構成されています。
駒場野の林をそのまま生かした奥庭や広場もあり、使用人は100人以上もいたそうです。
前田侯爵邸は、当時、東洋一の大邸宅と言われました。

洋館1階は、外交団や皇族方を招くパーティーが催される場として使用されました。
地下の厨房から配膳用のリフトで1階小食堂と2階配膳室へ料理を運びます。

こちらは、1階にある「イングルヌック」という場所です。
この空間はこじんまりとしたスペースに暖炉とソファーがあります。
イングルヌックとは、「暖かくて心地よい場所」という意味のスコットランド古語で、建築用語としては、「暖炉の側の暖かく、コンパクトな団欒の場所」を指します。

洋館2階は、家族の生活の場として使用されました。
2階には夫婦の寝室に、家族団欒用の婦人室、子供部屋があり、前田侯爵の書斎には、電話や呼び鈴が引かれ、電話は8回線、電話交換手が別棟で取り次ぐ仕組みです。

また、旧前田侯爵邸の壁には「スクラッチタイル」を使っています。
それでは、スクラッチタイルというものが何かご紹介する前に、明治初期から昭和初期にいたるまで、日本の建築がどのように変化をしていったのか書いておきたいと思います。
明治5年(1872)の銀座大火は隣の築地など、周辺の街を焼き尽くしてしまいました。
そこで、耐火構造建築として、赤煉瓦が推奨されるようになります。
東京府主導で銀座の赤煉瓦街を形成し、赤煉瓦と帯状の石材を組み合わせた「辰野式煉瓦建築」が登場します。
例えば、東京駅もその中の一つで、大量の鉄骨を使った煉瓦建築、関東大震災にも耐えました。
ところが、基本的に煉瓦は地震に弱く、震災後、煉瓦建築から鉄筋コンクリートへと移行していきました。
コンクリートの外壁を被覆するために生まれたのが、薄い張付化粧煉瓦を使った外装タイルです。
その後、フランク・ロイド・ライトさんが大正12年(1923)に帝国ホテルを設計した際に、外壁に大谷石と常滑産のスクラッチ煉瓦を使用すると、それが引き金になり、官庁や大学、金融機関などの建物に、スクラッチタイルを張ったものが建造され、昭和3年~6年にかけてピークを向かえました。
ライトさんが使用したスクラッチタイルは、張付化粧煉瓦とは異なるもので、煉瓦の表層部にスクラッチ(引っ掻き)模様を刻んだ無釉(むゆう)※煉瓦になります。
※釉(うわぐすり)...陶磁器の表面をガラス質にするためにかける薬品。表面を滑らかにし、液体や気体が染み込まないようにする。
旧前田侯爵邸は、昭和初期に造られたスクラッチタイルの建造物の1つになります。
機能的であり、モダンな前田侯爵邸は、当時の日本橋の建築物の中で、最先端の邸宅であり、多くの方々が、その素晴らしさに賞賛したことでしょう。
今日は、旧前田侯爵邸の構造について、ご紹介したいと思います。
前田侯爵邸は地上3階、地下1階の洋館と、その洋館を渡り廊下で結んだ2階建て和館から構成されています。
駒場野の林をそのまま生かした奥庭や広場もあり、使用人は100人以上もいたそうです。
前田侯爵邸は、当時、東洋一の大邸宅と言われました。

洋館1階は、外交団や皇族方を招くパーティーが催される場として使用されました。
地下の厨房から配膳用のリフトで1階小食堂と2階配膳室へ料理を運びます。

こちらは、1階にある「イングルヌック」という場所です。
この空間はこじんまりとしたスペースに暖炉とソファーがあります。
イングルヌックとは、「暖かくて心地よい場所」という意味のスコットランド古語で、建築用語としては、「暖炉の側の暖かく、コンパクトな団欒の場所」を指します。

洋館2階は、家族の生活の場として使用されました。
2階には夫婦の寝室に、家族団欒用の婦人室、子供部屋があり、前田侯爵の書斎には、電話や呼び鈴が引かれ、電話は8回線、電話交換手が別棟で取り次ぐ仕組みです。

また、旧前田侯爵邸の壁には「スクラッチタイル」を使っています。
それでは、スクラッチタイルというものが何かご紹介する前に、明治初期から昭和初期にいたるまで、日本の建築がどのように変化をしていったのか書いておきたいと思います。
明治5年(1872)の銀座大火は隣の築地など、周辺の街を焼き尽くしてしまいました。
そこで、耐火構造建築として、赤煉瓦が推奨されるようになります。
東京府主導で銀座の赤煉瓦街を形成し、赤煉瓦と帯状の石材を組み合わせた「辰野式煉瓦建築」が登場します。
例えば、東京駅もその中の一つで、大量の鉄骨を使った煉瓦建築、関東大震災にも耐えました。
ところが、基本的に煉瓦は地震に弱く、震災後、煉瓦建築から鉄筋コンクリートへと移行していきました。
コンクリートの外壁を被覆するために生まれたのが、薄い張付化粧煉瓦を使った外装タイルです。
その後、フランク・ロイド・ライトさんが大正12年(1923)に帝国ホテルを設計した際に、外壁に大谷石と常滑産のスクラッチ煉瓦を使用すると、それが引き金になり、官庁や大学、金融機関などの建物に、スクラッチタイルを張ったものが建造され、昭和3年~6年にかけてピークを向かえました。
ライトさんが使用したスクラッチタイルは、張付化粧煉瓦とは異なるもので、煉瓦の表層部にスクラッチ(引っ掻き)模様を刻んだ無釉(むゆう)※煉瓦になります。
※釉(うわぐすり)...陶磁器の表面をガラス質にするためにかける薬品。表面を滑らかにし、液体や気体が染み込まないようにする。
旧前田侯爵邸は、昭和初期に造られたスクラッチタイルの建造物の1つになります。
機能的であり、モダンな前田侯爵邸は、当時の日本橋の建築物の中で、最先端の邸宅であり、多くの方々が、その素晴らしさに賞賛したことでしょう。
みなさん、こんにちは。ガイドの青柳です。
「旧前田侯爵邸」は加賀前田家16代当主、前田利為侯の邸宅です。

江戸時代、前田家上屋敷は本郷にありました。
東京大学の代名詞「赤門」は前田家の邸宅の門の1つでした。
関東大震災後の復興計画の一環として、帝国大学(東京大学の前身)農学部のある駒場の土地の一部と、本郷の前田家の敷地とを等価交換し、大正15年(1926)に前田家は駒場の地へ移り住みました。
当主の前田利為侯は、明治11年(1888)生まれ、陸軍大学校を優秀な成績で卒業、陸軍大将に上り詰めました。
その類い稀なる才覚は、将来の陸相、首相候補とまで言われる程でした。
そんな利為侯も、当初は軍人になることには前向きではなく、外交官を志していたと言われています。
しかしながら、前田家は江戸時代、加賀100万石を治めていた大大名、明治時代もその権勢は衰えを知らず、華族となりました。
それゆえ、利為侯の回りでは、大名華族の者が軍人にならないと言うのは筋違いであると諭され、軍人の道を歩んでいくことになったそうです。
また、利為侯の資質と血筋を持ってすれば、優秀な政治家になることもできたと言われていましたが、明治天皇の「軍人が政治の世界に入ってはいけない」との教えを忠実に守り、生涯、軍人という立場を貫きました。
第二次世界対戦が勃発すると、利為侯はボルネオで戦火に散ってしまいました。
その後、前田侯爵邸は昭和20年9月、アメリカ軍に接収され、ホワイトヘッドの官邸に...
昭和26年4月にはリッジウェイの官邸になりました。
昭和31年には和館と一部の土地が国の所有に、昭和32年についに接収解除になります。
昭和38年になると、前田邸に公園が建設され、翌39年、東京都が洋館を買収しました。
旧前田侯爵邸洋館は「チューダー様式」という建築様式になります。
これは16世紀チューダー王朝期(1485~1603)の様式で、イギリス・ルネサンス初期のものになります。
デザインのベースは山小屋、装飾はせず、素朴な仕上げを旨としています。
デザインの特長
①チューダーアーチ※幅広で平たい尖塔アーチ
②煉瓦積みの壁
③非対称の建物構成にアクセントをつける煙突
④ハーフティンバー※柱・梁・筋違などの骨組みを外にむき出し、その間を煉瓦・土・石を充填して壁にする西洋木造建築様式
≪室内≫
①イタリア産大理石のマントルピース
②イギリス製家具
③壁にはイタリア産のシルク
④ヨーロッパ調の室内の中に菊や唐草模様の装飾
※「菊」は妻・菊子さんから取っている。
旧前田侯爵邸は、細かいところまでデザインのこだわりが行き届いているように感じます。
生前、前田侯爵は、「外国の要人の方をお迎えするような邸宅は、まだ日本にはほとんどなく、各国と日本が対等に渡り合うのには、このような洋風の邸宅が必要なのだ」とお考えになり、多額の財産を投資して、旧前田侯爵邸をお建てになったと言われています。
外交官を志していたという前田侯爵であったからこそ、このような素晴らしい邸宅が生まれたのだと思います。
「旧前田侯爵邸」は加賀前田家16代当主、前田利為侯の邸宅です。

江戸時代、前田家上屋敷は本郷にありました。
東京大学の代名詞「赤門」は前田家の邸宅の門の1つでした。
関東大震災後の復興計画の一環として、帝国大学(東京大学の前身)農学部のある駒場の土地の一部と、本郷の前田家の敷地とを等価交換し、大正15年(1926)に前田家は駒場の地へ移り住みました。
当主の前田利為侯は、明治11年(1888)生まれ、陸軍大学校を優秀な成績で卒業、陸軍大将に上り詰めました。
その類い稀なる才覚は、将来の陸相、首相候補とまで言われる程でした。
そんな利為侯も、当初は軍人になることには前向きではなく、外交官を志していたと言われています。
しかしながら、前田家は江戸時代、加賀100万石を治めていた大大名、明治時代もその権勢は衰えを知らず、華族となりました。
それゆえ、利為侯の回りでは、大名華族の者が軍人にならないと言うのは筋違いであると諭され、軍人の道を歩んでいくことになったそうです。
また、利為侯の資質と血筋を持ってすれば、優秀な政治家になることもできたと言われていましたが、明治天皇の「軍人が政治の世界に入ってはいけない」との教えを忠実に守り、生涯、軍人という立場を貫きました。
第二次世界対戦が勃発すると、利為侯はボルネオで戦火に散ってしまいました。
その後、前田侯爵邸は昭和20年9月、アメリカ軍に接収され、ホワイトヘッドの官邸に...
昭和26年4月にはリッジウェイの官邸になりました。
昭和31年には和館と一部の土地が国の所有に、昭和32年についに接収解除になります。
昭和38年になると、前田邸に公園が建設され、翌39年、東京都が洋館を買収しました。
旧前田侯爵邸洋館は「チューダー様式」という建築様式になります。
これは16世紀チューダー王朝期(1485~1603)の様式で、イギリス・ルネサンス初期のものになります。
デザインのベースは山小屋、装飾はせず、素朴な仕上げを旨としています。
デザインの特長
①チューダーアーチ※幅広で平たい尖塔アーチ
②煉瓦積みの壁
③非対称の建物構成にアクセントをつける煙突
④ハーフティンバー※柱・梁・筋違などの骨組みを外にむき出し、その間を煉瓦・土・石を充填して壁にする西洋木造建築様式
≪室内≫
①イタリア産大理石のマントルピース
②イギリス製家具
③壁にはイタリア産のシルク
④ヨーロッパ調の室内の中に菊や唐草模様の装飾
※「菊」は妻・菊子さんから取っている。
旧前田侯爵邸は、細かいところまでデザインのこだわりが行き届いているように感じます。
生前、前田侯爵は、「外国の要人の方をお迎えするような邸宅は、まだ日本にはほとんどなく、各国と日本が対等に渡り合うのには、このような洋風の邸宅が必要なのだ」とお考えになり、多額の財産を投資して、旧前田侯爵邸をお建てになったと言われています。
外交官を志していたという前田侯爵であったからこそ、このような素晴らしい邸宅が生まれたのだと思います。
みなさん、こんにちは。ガイドの青柳です。
夏は納涼ということで、これまでクルージングのコースを多く担当させていただきましたが、今日は同じ納涼でも、怪談での納涼という趣向でガイドをさせていただきました。
今日、ご紹介するのは、都内でも有名な心霊スポット、「平将門首塚」です。

ここは大手町付近のとある交差点です。
写真を見ると、この場所はオフィス街で、この近辺に平将門公ゆかりのものがあるとは信じがたいのですが、ここから真っ直ぐ歩いて行くと...

将門首塚があります。
周辺のオフィスビルとは一線を画すように、ひっそりと祀られています。
私も何度かこの地を訪れていますが、いつ来ても厳粛な気持ちになります。
では、何故このようなオフィス街の真ん中に、将門公の首塚が今も存在をし続けているのか...
それは、かつて豊嶋郡芝崎村と呼ばれていた、この地と、将門公との切っても切れない深い繋がりがありました。
平将門公は承平5年(935)に勃発した、承平天慶の乱で朝敵になってしまいました。
天慶3年(940)、将門公は下総北山で討ち取られてしまいます。
将門公の首は平安京東市にて、晒し首に...
それから3日目の夜...
将門公の首は、自分の胴を求めて、東に向かって飛んで行きました。
ところが、途中で力尽きて落下、このエピソードは諸説ありますが、将門公の首は豊嶋郡芝崎村に落ちたと言われています。
その後、この芝崎村界隈は天変地異が多発し、しばらく将門の怨念に苦しめられたそうです。
時は変わって、徳治2年(1307)、真教上人という僧が遊行の際、当地を訪れ、将門公の首塚を建立し、付近にあった天台宗日輪寺を芝崎道場と改宗させ、神田明神の別当寺として、将門信仰を伝承したと言われています。
江戸時代になると、徳川幕府は、将門信仰に基づいた都市計画を実行します。
将軍の側近として仕えた天海上人は、将門公ゆかりの神社を、北斗七星の形になるように配置します。
北斗七星は妙見菩薩の化身と言われ、平将門公は妙見菩薩に厚い信仰を寄せていました。
そのゆかりの神社は...
①鳥越神社(将門公の首が越えていった場所)
②兜神社(藤原秀郷公が将門公の首を京に運ぶ際に、兜を地中に埋め供養)
③首塚(将門公の首が落ちた場所)
④神田明神(平将門公を祀る)
⑤筑土八幡神社(平将門公の首を祀るために観音堂を建立)
⑥水稲荷神社(平将門公ゆかりの神社の流れを断ち切るための、将門調伏神社)
⑦鎧神社(平将門公の鎧を奉納)
これら7つの神社を繋ぎ合わせると、北斗七星の形となります。
天海上人は将門公の霊力を使って、江戸の街を守護しようとしたと言えます。
改めて、将門首塚を見直すと、今にも都会の中に埋もれてしまいそうなこの祠が、江戸東京という大都市において、非常に大きな影響力を及ぼしていたことを感じます。
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夏は納涼ということで、これまでクルージングのコースを多く担当させていただきましたが、今日は同じ納涼でも、怪談での納涼という趣向でガイドをさせていただきました。
今日、ご紹介するのは、都内でも有名な心霊スポット、「平将門首塚」です。

ここは大手町付近のとある交差点です。
写真を見ると、この場所はオフィス街で、この近辺に平将門公ゆかりのものがあるとは信じがたいのですが、ここから真っ直ぐ歩いて行くと...

将門首塚があります。
周辺のオフィスビルとは一線を画すように、ひっそりと祀られています。
私も何度かこの地を訪れていますが、いつ来ても厳粛な気持ちになります。
では、何故このようなオフィス街の真ん中に、将門公の首塚が今も存在をし続けているのか...
それは、かつて豊嶋郡芝崎村と呼ばれていた、この地と、将門公との切っても切れない深い繋がりがありました。
平将門公は承平5年(935)に勃発した、承平天慶の乱で朝敵になってしまいました。
天慶3年(940)、将門公は下総北山で討ち取られてしまいます。
将門公の首は平安京東市にて、晒し首に...
それから3日目の夜...
将門公の首は、自分の胴を求めて、東に向かって飛んで行きました。
ところが、途中で力尽きて落下、このエピソードは諸説ありますが、将門公の首は豊嶋郡芝崎村に落ちたと言われています。
その後、この芝崎村界隈は天変地異が多発し、しばらく将門の怨念に苦しめられたそうです。
時は変わって、徳治2年(1307)、真教上人という僧が遊行の際、当地を訪れ、将門公の首塚を建立し、付近にあった天台宗日輪寺を芝崎道場と改宗させ、神田明神の別当寺として、将門信仰を伝承したと言われています。
江戸時代になると、徳川幕府は、将門信仰に基づいた都市計画を実行します。
将軍の側近として仕えた天海上人は、将門公ゆかりの神社を、北斗七星の形になるように配置します。
北斗七星は妙見菩薩の化身と言われ、平将門公は妙見菩薩に厚い信仰を寄せていました。
そのゆかりの神社は...
①鳥越神社(将門公の首が越えていった場所)
②兜神社(藤原秀郷公が将門公の首を京に運ぶ際に、兜を地中に埋め供養)
③首塚(将門公の首が落ちた場所)
④神田明神(平将門公を祀る)
⑤筑土八幡神社(平将門公の首を祀るために観音堂を建立)
⑥水稲荷神社(平将門公ゆかりの神社の流れを断ち切るための、将門調伏神社)
⑦鎧神社(平将門公の鎧を奉納)
これら7つの神社を繋ぎ合わせると、北斗七星の形となります。
天海上人は将門公の霊力を使って、江戸の街を守護しようとしたと言えます。
改めて、将門首塚を見直すと、今にも都会の中に埋もれてしまいそうなこの祠が、江戸東京という大都市において、非常に大きな影響力を及ぼしていたことを感じます。