ぽけかる倶楽部 ガイドレポート
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青柳 竜馬 |
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みなさん、こんにちは。ガイドの青柳です。
「有章院霊廟二天門」は現在、東京プリンスホテルの向かいにあります。
「有章院」とは、7代将軍・家継公の院号になります。
享保2年(1717)、8代将軍・吉宗公が建立し、日光東照宮に劣らぬと言われる程、豪華なものだったそうです。
この二天門をそれぞれ守護しているのが、「広目天」と「多聞天」です。
それに、「増長天」、「持国天」を合わせて、「四天王」と呼ばれています。
四天王は、須弥山の頂上に住む帝釈天に仕え、八部鬼衆を支配し、その中腹で仏法を守護しています。
「須弥山」とは、お釈迦様の教えの中における、宇宙に関する概念の1つで、それは、直径が太陽系程の大きさの円盤が3枚重なった上に、高さ約132kmの山が乗っています。
これが1つの世界で、小世界と言い、その円盤の真ん中にある山を須弥山と呼んでいます。
人間の世界はこの山の裾にある島の1つで、頂上には帝釈天を始め、様々な神様の住む世界があります。
また、山上の空中にも様々な世界があり、悟りの手前の世界、ほんの少し煩悩が残る世界を「有頂天」と言います。
ここから、有頂天が「成功した喜びで夢中になっていること」や「得意の絶頂」の意味に転じていきました。
そして、山の下にある一番上の円盤を「金輪」と呼びます。
直径はほぼ太陽系程で、金輪には、このような「果てまで」という意味があり、そこから、「金輪際」が「どんなことがあっても」という意味に転じました。
この金輪の上には須弥山を中心とした9つの山、その間には海があり、「九山八海」と言います。
一番外側に4つの島、南方にある島が人間の住む世界になります。
これを「閻浮提(えんぶだい)」と呼びます。
それでは、ここで簡単に四天王を紹介します。
◯多聞天:毘沙門天(サンスクリット語では「バイシュラバナ」)とも呼ばれ、夜叉、羅刹を率い、須弥山の北方を守る神。ヒンズー教では、クーペラの異名を持つ。
◯持国天:須弥山の東を守護する。サンスクリット語では「ドゥリタラーシュトラ(国土を守るもの)」。乾闥場(けんだつば)などを率いる。手に持った剣で敵と人々の煩悩を切り、釈迦の教えへと導く。
◯増長天:須弥山の南方を守護。サンスクリット語では「ヴィルーダカ(成長、増長したもの)」。鳩槃荼(ぐばんだ)、薜茘多(へいれいた)を率いている。増長天は魔神、鬼神のリーダーとも言われている。手には戟(げき)と金剛杵を持つ場合が多い。
◯広目天:須弥山の西方を守護。サンスクリット語では、「ヴイルパーク(様々な目、特殊な目)」。そこから、「特殊な目を持つ者」として、広目天という名がついた。諸竜王※を従える。手には戟と羂索※(けんじゃく)を持つ。
※諸竜王:八部衆に属する一尊。その数、160とも言われている。八尊から成り、代表的なものは「難陀竜王」、「跋難陀(ばつなんだ)竜王」、「和修吉(わしゅきつ)竜王」、「徳叉迦(とくしゃか)竜王」など...
※羂索:古代インドで狩猟に使われていた縄状の武器。先についた重りの重みを利用して、獲物に向かって縄を投げ、縛って捕らえる。
先の戦災で将軍霊廟など、境内の多くが焼失してしまいましたが、奇跡的に二天門は残りました。
土葬されていた歴代将軍、正室、側室のご遺体は荼毘に付して、徳川将軍墓所に改葬されました。
みなさん、こんにちは。ガイドの青柳です。

羽二重団子の歴史を辿っていくと、文政2年(1819)に、※芋坂の下、※音無川の畔に、植木屋だった初代澤野庄五郎さんが「藤の木茶屋」という庭付きの茶屋を開業したことに始まります。
※芋坂:この付近で自然薯(山芋)が採れたことに由来。JRの敷設により、今は芋坂は分断され、高架橋になっているが、昔は道灌山から直接、芋坂を下り、羽二重団子のお店に行くことができた。
※音無川:江戸時代に開削された灌漑用水路。道灌山の崖下を通る。石神井川から分水され、王子大堰を経由し、田端、日暮里方面へ。日暮里からは、三ノ輪を通り、山谷堀、思川に分かれ、隅田川に注いでいた。音無川沿いは低地で、農業が盛ん、ここで採れた農作物は江戸市中へ運ばれた。谷中生姜や三河島菜など...
羽二重団子本店の前には、王子街道という道が通っていました。
王子街道を通る旅人のために、団子を振る舞ったところ、とても評判が良く、茶屋から団子専門店へと発展していきました。
羽二重団子の名前の由来は、「きめ細やかで、羽二重のようだ」と、そのお団子が称賛されたことから付けられたと言われています。
また、「藤の木茶屋」の名前の由来は、お店の前に藤棚があったことに因んでいます。
お団子は元々、中国渡来の野趣ある菓子で、日本には江戸時代に入り普及されました。
元禄年間(1688~1704)頃から名物団子が現れるようになっていきます。
幕末になると、上野戦争で敗走した彰義隊士達が、芋坂を駈け下り、羽二重団子に自分達の武器を打ち捨て、そのまま野良着に着替え、一般人の振りをしながら、遠く日光山の方に向かいました。
明治時代になり、羽二重団子は引き続き、多くの方々に愛されました。
著名な文人の方々からも強い支持を受け、※正岡子規、夏目漱石、泉鏡花、田山花袋(敬称略)などの作品にも登場します。
※登場作品
◯正岡子規:「道灌山」、「仰臥漫録」、「寒山落木巻三」
◯夏目漱石:「吾輩は猫である」
◯泉鏡花:「松の葉」
◯田山花袋:「東京の近郊」
例えば、「吾輩は猫である」の中では、「芋坂の団子」という表記で登場し、多々良君がご主人様を誘うシーンは、その記述を読むだけでも、羽二重団子への愛情が強く伝わってきます。
他の文学作品を読んでみても、羽二重団子とその周辺の様子がリアルに描かれています。
開発によって、芋坂も音無川も、その原型は失われてしまいましたが、羽二重団子や、様々な文学作品を通すことによって、在りし日のこの界隈の風景が今も生きていると思いました。
みなさん、こんにちは。ガイドの青柳です。

笹乃雪は元禄4年(1691)創業の老舗のお食事処です。
初代・玉屋忠兵衛さんが上野の宮様(111代・後西天皇)のお供をして、京より江戸に移ったことがきっかけで、江戸で初めて絹ごし豆富を作ったことに由来しています。
その時、宮様が、
「笹の上に積もりし雪の如き美しさよ」
と称賛されました。

そのお言葉が「笹乃雪」の屋号となります。
笹乃雪は元禄期より続く老舗ゆえに、その歴史はとても深いものがあります。
赤穂浪士の討ち入り後、浪士達は四ヶ所の大名屋敷へお預けになりましたが、そのうち、大石内蔵助以下17人が細川家に引き取られることになりました。
その際、笹乃雪 の豆富が細川家に届けられたと言われています。
これは、上野輪王寺の宮、公弁法親王の心遣いによるものだそうです。
又、この心遣いの裏には、玉屋忠兵衛さんの娘である、お静さんが細川家お預けの赤穂浪士・磯貝十郎左衛門さんに心を寄せていたことも関係していると言われています。
2人の最初の出会いは、ある時、お静さんが雪道で足をとられ、滑りそうになったのを、十郎左衛門さんが助けたことが始まりだとか...
その後、十郎左衛門さんは、俳人・宝井其角さんに連れられ笹乃雪 に来店、2人は再会することになります。
しかし、十郎左衛門さんは、その後もたびたび来店するも、名前も身分も明かしませんでした。
そんな十郎左衛門さんに、強く想いを寄せていたお静さんが、切腹をする前に、その想いを伝えるために、豆富を送ったのでしょう。

笹乃雪では江戸時代から続く下足番の方々によって、江戸文化を今に伝えています。
この下足番という職業には、江戸の町の特徴が密接に繋がっています。
江戸時代、町には火事が多く、260年間続いた中で、大火事が90回もあったと言われています。
そのため、当時の人々は火事に備え、自分の資産を守るために建物を簡素にし、何かあったらすぐに持ち出せるように、雪駄や草履に金をかけ損害を最小限にしました。
この理由から、江戸に住む人々にとって、履き物は財産でもあり、その掛け金は多大なものであったと言われています。
その額は、今の外国製の高級ブランドメーカーの靴よりも、何倍も高かったものでした。
従って、履き物を脱いで上がる江戸の店では、履き物の管理に非常に気を遣い、お客さんが帰る時、高価な履き物を紛失したり、他のお客さんと取り間違えたりすることがないよう、各店に下足番を置くようになったのです。
さらに、江戸の店に下足番を置くのには、もう一つ理由があります。
江戸は地方から来た人々が住んでおり、中には、地元でないのを良いことに、食い逃げが多発するという問題がありました。
そのような人々は、お金がないからではなく、「悪戯」として、食い逃げをしていたのだとか...
そのため、下足番が履き物の管理をし、お勘定が済んだお客さんに履き物を渡すようにしていたというのも、江戸の店で下足番が重宝された理由になります。
笹乃雪の下足番の方々は、来店をするとき、いつも温かく迎えてくれます。
現在、下足番を雇っているお店は、ほとんど残っていないのですが、笹乃雪では、今も江戸文化を感じることができます。
最後に、笹乃雪では、「とうふ」を「豆腐」とは書かず、「豆富」と書いています。
9代目当主の奥村多吉氏が、料理店で「腐る」という字は相応しくないと考え、「豆富」と記すようになったからです。