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ぽけかる倶楽部 ガイドレポート

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大都会の秘境・ジャングルクルーズ!御茶ノ水駅と聖橋を船から見上げる 『神田川クルーズ』  ガイドレポート

9/19 神田川から柳橋を臨む

2011年9月21日
こんにちは。ガイドの青柳です。

これは神田川から見た柳橋の風景です。
隅田川から入るとすぐに、船宿が立ち並ぶ、とても風情ある景観が、私達を出迎えてくれます。

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柳橋の架橋は元禄11年(1698)、神田川が大川(隅田川)に注ぎ込むところに架かっていたので、当初は「川口出口之橋」という名称でした。
その後、川沿いに柳の木が植えられていたことに因み、「柳橋」と呼ばれるようになりました。

江戸時代、柳橋~浅草橋間の河岸から、吉原に通うときに用いられた猪牙舟などが出ており、
様々な舟遊びの場として発展し、周辺には船宿、料理屋で賑わうようになっていきます。

また、柳橋は花街としても大変栄えたと言われています。
この界隈の芸者さんは「柳橋芸者」と呼ばれていました。

それでは、どのようにして、柳橋が花街の性格を持つようになったのでしょうか?

柳橋芸者の多くは、元々、深川の遊廓で働いていた「辰巳芸者」だったそうです。
深川の遊廓は岡場所という幕府非公認の遊廓であったため、水野忠邦さんによって取締りを受け、大半がお取り潰しになってしまいました。

そこで、職を失った辰巳芸者は働く場所を求め柳橋へ...

柳橋は主に人が乗る舟を扱っており船運の要地、吉原へ舟で向かうお客さんがまず立ち寄ったのが柳橋でした。
そこで、辰巳芸者は柳橋を拠点とするようになり、柳橋芸者へと転身していきます。
柳橋芸者は気っ風が良く趣があり、決して媚びることをしない、江戸芸者の正統であると言えます。
彼女達は日本橋界隈の老舗の旦那衆から強い支持を受けるようになりました。

そして、柳橋の花街の隆盛は江戸から明治へと引き継がれていきます。

明治維新後、柳橋芸者は江戸芸者のプライドを守り続けました
彼女達はあくまでも幕府贔屓、お相手したお客さんは江戸っ子で、薩長出身の高官とは遊ぶことがなかったそうです。
そこで、薩長の政治家の方々はお相手してくれる芸者さんを求めて、新しい花柳界・新橋を作り、新橋芸者が生まれました。
これらの背景は、柳橋芸者の方々が粋で鯔背(いなせ)な江戸文化を壊されてしまったことに対する、薩長の政治家への反発であったと言われています。

現在、柳橋界隈を歩いても、かつての花街の風情はほとんど見られなくなってしまいましたが、この地に、誇り高き柳橋芸者の方々が活躍されていたことを思うと、江戸文化の素晴らしさが感じられてくるような気がします。


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9/15 江戸の酒屋

2011年9月15日
みなさん、こんにちは。ガイドの青柳です。

最近はまだまだ残暑も厳しく、なかなか涼しくならないのですが、こんなときは冷酒が美味しいと思います。

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こちらが、いつも日本橋川クルーズで利用させていただいている、「ジールクルーズ」さんの船です。
この船の上で冷たいお酒をいただくことができたら、とても気持ち良さそうです。

...ということで、今日は江戸の酒屋をテーマに、ご紹介したいと思います。

クルージングのコースで鎌倉橋の下を潜りますが、そのあたりはかつて、鎌倉河岸と呼ばれていました。
その河岸に上げられていたのが伊豆方面から運ばれてきた、石垣用の石で、名前の由来は鎌倉方面から来た石工の方々が多く働いていたためだと言われています。

そこで働く人夫に対して商売を始めたのが、「豊島屋」...現在の豊島屋酒造さんになります。

豊島屋は江戸時代、薄利多売のスタンスを取っており、相手にしていたお客様は、水戸侯など、各潘の御用を務めていただけでなく、中間、馬子、駕籠かき、船頭など、多岐に渡っていました。

また、豊島屋は酒の肴に大型の田楽を安い価額で提供するようになりました。

「田楽も鎌倉河岸は地物也」

これは現在の居酒屋のコンセプトを考案したと言えます。
そして、豊島屋の周辺はお酒を入れる手桶を売るものが現れたり、おでん屋や大福餅屋などの屋台が出るようになっていきます。

「山なれば富士 白酒なれば豊島屋」

この川柳が意味するところは、豊島屋の白酒が大変人気があったことを指しています。
豊島屋は毎年2月25日、雛祭りの白酒を売っていました。
このときは多くの人で賑わい、手桶1個の人から、天秤棒を担いだ人、中には2人で大きな桶を持った人達が、豊島屋の白酒を買おうと溢れかえっていました。
この特売日のときのみ、お店に臨時で櫓を組み、鳶と医者が上がって見張りをしていたそうです。
これは、あまりの混雑に怪我人が出たら、鳶口で櫓へ釣り上げ、応急手当をするためだったからだと言われています。

また特売日の日は、通常販売していた、お酒、醤油、油はお休みになり、白酒の販売も現金は使わず、前もって発行した切手で取引を行いました。

「雛棚の下でとしまの味をほめ」
※豊島と年増をかけている。

この川柳もまた、白酒の人気を象徴しているように感じます。
江戸時代初期に、鎌倉からやってきた石工の方々の喉を満たしていた豊島屋は、江戸有数の商家となり、現在も私たちに美味しいお酒を提供し続けています。


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9/12 柳島

2011年9月15日
みなさん、こんにちは。ガイドの青柳です。

a0915-1.jpg北十間川から見る景色は、いつも独特な印象を受けます。
この北十間川は、明暦の大火後、本所開発の一貫として開削されました。

この写真を撮った場所はかつて「柳島」と呼ばれていました。
何でも、昔、ここに柳の木が多かったことから、「柳島」と呼ばれるようになったとか...

左側の岸のところには、「橋本」という会席茶屋があったそうです。
橋本はとても人気のある料理屋で、江戸の番付にも「柳島、骨も残さぬ若鮎、橋本」とあります。
橋本の対岸は江戸時代は田園風景が広がっており、室内から見る景色はとても素敵なものであったのだということを感じます。

橋本の隣には妙見菩薩を祀る、「妙見山法性寺」
先日のガイドレポートでも、少し触れましたが、妙見菩薩は北斗七星や北極星の化身であると考えられています。

法性寺は毎月1日、15日、28日には縁日が開かれ、多くの参拝客を集めたそうです。



また、法性寺に厚い信仰を寄せていた方も多くいました。
歌舞伎役者初代中村仲蔵さんは、法性寺に日参の折、忠臣蔵の定九郎の役作りのヒントを得たと言います。葛飾北斎さんも、妙見菩薩の大の信者で、「北斎」という名前は、北辰妙見から取り、「北斎辰政雷斗」としました。

柳島は三遊亭円朝さんの怪談「怪談乳房榎」にも登場します。
この物語は、絵師の菱川重信さんが、弟子入りした浪人者の磯貝浪江さんの謀略により殺害されてしまいますが、その菱川重信さんが住んでいたのが、この柳島界隈という設定になっていました。

柳島から横十間川を渡って少し行きますと、亀戸天神があります。
亀戸天神は梅が綺麗な場所ですが、亀戸天神の隣には、かつて梅屋敷があり、多くの文人墨客や豪商の方々が頻繁に訪れていたみたいです。
その亀戸梅屋敷にあったのが「臥龍梅」。
龍が畝っているような形をしていたことから、「臥龍梅」と呼ばれ、大変親しまれていました。
安藤広重さんの作品にも、臥龍梅を描いたものがあり、ゴッホさんも、その素晴らしさに、臥龍梅を模倣した作品を書きました。
残念ながら、明治43年、大洪水に遭ってしまい、梅屋敷は流され、廃園となってしまいました。

この柳島から亀戸にかけては、昔は、信仰や風景を求めて、多くの人々が詰めかけたことと想像できます。


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9/5 江戸時代のひな祭り

2011年9月 7日
みなさん、こんにちは。ガイドの青柳です。

日本橋から三越方面に200mくらい歩いていくと、このような説明板があります。

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この場所は「十軒店跡」です。
説明板によると、「3月の桃の節句には、内裏雛や禿人形を、5月の端午の節句には、甲人形や鯉幟を売る仮店が十軒あったことから、十軒店の名がある」とあります。
寛永江戸図にも記載があり、江戸時代初期の頃から、すでに名高いものであったそうです。
寛政年間(1789~1801)には、十軒店の出店は41軒になったと言われています。特に雛市は、他に尾張町、浅草茅町、池之端仲町、麹町、駒込などにもありましたが、十軒店のにぎわいには及ばなかったと言われています。
ちなみに、人形市で有名な十軒店でも、市の立つ時期以外は、大根や牛蒡などの青物を売っていたみたいです。

では、その人形市の様子というのは、どんな感じだったのでしょうか?

江戸名所図会には...

「本町と石町の間の大通りをいふ。桃の佳節を待ち得ては、大裡雛、裸人形、手道具などのみせ、軒端を並べたり。端午は、冑人形、菖蒲刀ここに市を立てて、その賑わひをさをさ弥生の雛市におとらず。また年の暮に至れば、春を迎ふる破魔弓、手毬、破胡板(はごいた)を商ふ。ともに、その市の繁昌、言語(げんきょ)に述べ尽くすべからず」

...と、やはりその繁昌振りが紹介されています。

そして、ここでの商売人とお客さんとのやりとりもまた、ユニークなものであったと言われています。

人形商人は人形の価格を、あらかじめ高くしておき、お客さんもそれを承知の上なので、双方の懸け引きは言わば、名物であったと言えます。
また、人形市の混雑振りというのは、よく喧嘩を引き起こしたと言われており、ほどよく値が折り合い金子を渡そうとして懐中を探ると、金嚢(きんのう・財布のこと)がいつの間にか盗まれていたり、せっかく買った人形を喧嘩に巻き込まれて壊してしまうほどの混雑具合だったそうです。

「ひなまつり」は、元々、「ひなあそび」と言われ、平安時代、貴族の子女の雅な遊びごととして行われていました。

江戸時代になると、芝居や物語を通して、一般の人々にも王朝文化や宮廷生活を知るようになり、そこから憧れが生まれるようになりました。
従って、ひなまつりの始まりは憧れの文化であると言えるのではないかと思います。
このひなまつりが江戸の女性の心をとらえ、華やかな行事として、定着していきました。

江戸のひなまつりがどのくらい盛んだったかと言うと、寛永3年(1626)に江戸から京都の天皇に入内した徳川和子様の宮中のおみやげに、御雛道具がありました。
雛道具が本場京都への土産物になるくらいですので、江戸においてかなり定着をしていたのだと言えます。

節句が近付いてくると、江戸の街の中で、雛売りの売り声が聞こえてくるようになったそうです。
天秤棒に葛籠を担いだ雛売りが、軒から軒へと流し歩いていました。
このような行商の雛売りが扱う人形や雛道具は、店で売っているような豪華なものではなかったのですが、価格がリーズナブルであったので、店の人形に手が届かない人達でも、手軽に買い求めることができました。

雛市は貞享年間(1684~1688)には、2月27日~3月2日までだったのに対し、享保年間(1716~1736)には市の期間も少し延びて2月25日~3月2日までになりました。
一方、五月人形は4月25日~5月4日までと決められていました。

日本橋は魚市場で大盛況だったと同時に、人形市でも大変賑わったことと思います。